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桑田泰次

桑田真澄の父 ウィキペディアから

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桑田 泰次(くわた たいじ、1943年[1]1月17日[2][3] - 2010年1月17日[2][3])は、日本実業家著作家野球指導者中国天津生まれ[1]

元プロ野球選手・桑田真澄、プロゴルファー・桑田泉の父親。

概要

要約
視点

真澄が小学校2年生か3年生の頃に野球グローブを買い与える。そしてそのグローブの綿を全部抜くということをしていた。良い捕り方をしないと痛いため、良い捕り方をできるようにするためであった。父である泰次も同じく綿の無いグローブを使用していた。良い捕り方をしないと怒るため、真澄はキャッチボールをするたびに泣いていた。二宮清純はこの話を聞いて『巨人の星』を思い浮かべ、星飛雄馬と星一徹の関係みたいであると思う。星家にあって桑田家に無かった物は大リーグボール養成ギブスくらいだっただろうと思う[4]

1985年11月11日PL学園高等学校の寮に清原和博の家族への挨拶のために複数の球団のスカウトが集まっていた。その場にいきなり泰次が入ってきて、いろいろ臆測があるがはっきりしたいとした。臆測というのは真澄は早稲田大学進学を希望しているのだが、受験の方式が自己推薦というドラフト会議の4日後に行われる方式であったため、実は真澄は巨人密約しており、他球団から指名されないようにするために大学進学希望と偽っているというものであった。泰次は報道陣の前に座り込んで、臆測されている巨人との密約を否定する。学校側とも相談して真澄に何度も確認しているとする。例え巨人に指名されても心変わりはしないとも発言していた。本当にドラフト会議ではどこにも指名してほしくないからであるとした。11月20日に行われたドラフト会議では、巨人は1位に桑田真澄を指名して会場ではどよめきが起き、巨人が唯一の指名であったために巨人入団が決まった。広島のスカウトは信用していたために唖然としていた[5]

1986年にPL学園高等学校野球部の部員が学園内の池で水死するという事故が起きた。これにはいじめであるという声が一部にあったものの、学園側はこれを否定して日本高等学校野球連盟は不問にしていた。だが後年に泰次が、あれはいじめであったと暴露して話題になった[6]。この事故でのインタビューでは、絶対に仕返しをされないという上下関係の構図で起きるのが体罰であり、これはスポーツにおいては最も恥ずべき卑怯な行為であると語る[7]

1990年代浜松市に移住して小学生、中学生を対象とした硬式野球チームを結成して指導する。2006年より自宅兼店舗となる不動産を借り受けて喫茶店の店主も務め、店舗は少年野球チームの事務所も兼ねていた[3]

2000年に『野球バカ』という書籍を出版する。ここでは自身は子育てなんかしないで、野球が親子の全てであったとする。泰次が初めて息子との野球に明け暮れた日々を書いたという書籍であった[8]。1986年にPL学園高校野球部の部員が水死したことについても詳しく書いている[9][10]

2010年1月17日、浜松市中区の自宅兼喫茶店が全焼する火災が発生して、一酸化炭素中毒で死亡[2]。67歳没。17日正午頃に身元確認のために真澄が浜松市内の病院で対面した。真澄は同年に早稲田大学大学院を卒業予定で、それから父と1年間ゆっくりしようと計画していた。最後にもう一度キャッチボールをしたいと思っていたのだができなくて残念に思う[3]1月18日には通夜が行われ、真澄は我慢していたけど涙が止まらなかった。通夜の会場には鳩山由紀夫長嶋茂雄、清原和博らの著名人から届けられた花が多数飾られていた[11]

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脚注

関連項目

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