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森下景端
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森下 景端(もりした かげなお、文政7年4月6日〈1824年5月4日〉[1] - 明治24年〈1891年〉1月1日)は、岡山藩士。通称は亀次郎、立太郎、慶太郎。諱は景端。
経歴
要約
視点
備前岡山城下七番町にて森下重兵衛の子として生まれる。先祖は百姓であり、宝暦年間に武士に取り立てられたとされる。隣家は岡山藩儒の中川家で、その息子中川横太郎とは幼馴染ではあるが折り合いは悪かったという。
幕末期の岡山藩士として
旧暦弘化2年(1845年)先徒雇として出仕。安政3年10月(1858年)に父が没し、家督を相続。この頃から牧野権六郎の目に留まるようになり、元治元年(1864年)権六郎の命で吉田屋十郎右衛門とともに長州藩に赴き山縣半蔵らと面会し、さらに家老の益田親施と折衝することに成功している。
慶応元年2月(1865年)、牧野権六郎の推挙により郡奉行(備中国)になる。慶応2年4月(1866年)の倉敷浅尾騒動の際、尊攘派であった景端は取締りに消極的であった。結果、藩は徳川慶喜より詰問を受けたため、同年5月に藩主池田茂政より郡奉行罷免(中小姓への格下人事)・切米10俵削減を被った。同年5月より各郡奉行は農兵組立御用を始め、同年10月農兵組立掛となっていた景端も農民を徴募し、農兵隊(12月17日耕戦隊と改名)を組織した。
王政復古後の慶応3年12月27日(1868年1月21日)、太政官より下命された西宮警備のため、日置帯刀に従い耕戦隊を率いて出陣。
江戸城入場・戊辰戦争へ
慶応4年/明治元年2月6日(1868年)、岡山藩が東征軍(新政府軍)先鋒を命じられると、2月9日、耕戦隊と勇戦隊を率いて江戸へ向い出陣。途中京都今熊野(京都市東山区)の藩邸の兵を加え350人編成とした。同年4月11日の江戸城明け渡しの際は、西の丸に入り接収役を勤めた。同年閏4月7日、江原鋳三郎率いる撒兵隊(さっぺいたい)分隊を中心とする旧幕府軍との戦い(八幡戦争)のため、耕戦隊を率い五井・姉ヶ崎(千葉県市原市)方面に出陣し、旧幕府軍掃討に当たった。さらに同年5月15日、耕戦隊を率いて彰義隊討伐(上野戦争)に加わり、深手を負いながらも平岡仙蔵(徹兵取締役)を打ち取り、その後横浜病院に入院。同年6月6日、新政府より命じられた奥州出兵(戊辰戦争)のため傷が癒えぬまま耕戦隊(7月15日遊奇隊と改称)を率いて出陣。6月22日より関田・矢板坂・湯長谷(福島県いわき市)、磐城平城攻城戦、三春出兵、二本松城攻城戦を経て、同年8月に組外格軍事方となり会津藩の若松城攻略戦へと転戦した。
明治維新後
帰藩後の明治2年1月(1869年)、近習物頭末席・切米取りから知行150石となり、同月中に参政に出世した(役料30石加増)。版籍奉還に伴い、同年8月に権大参事に就任。
廃藩置県後の明治4年11月(1871年)、大分県参事に登用されると、明治5年(1872年)に大分県権令、新暦1874年(明治7年)には大分県令に任じられた。1876年(明治9年)6月、大分県令を辞任。明治政府より正五位叙任。
退官後は岡山へ戻り池田章政家の家宰を務め、黒住教の中教正(1877年2月より)・副管長として布教活動をした。
1891年(明治24年)1月1日没。1月3日、半田山墓地に埋葬された。
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脚注
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