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森山栄之助

幕末期の通訳、英語教師 ウィキペディアから

森山栄之助
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森山 栄之助(もりやま えいのすけ、または森山 多吉郎文政3年6月1日1820年7月10日〉 - 明治4年3月15日1871年5月4日〉)は、江戸時代に活躍した日本の通詞通訳)。創設した英語塾の門下生として幕末や明治政府で活躍した外交官や通訳を多く輩出した。

概要 もりやま えいのすけ 森山 栄之助, 生誕 ...

生涯・人物

文政3年(1820年)、長崎に生まれる。家は代々阿蘭陀通詞(オランダ通詞)を務めていた。英語が話せたことから、嘉永元年(1848年)、偽装漂着のアメリカ捕鯨船船員のラナルド・マクドナルドの取り調べに当たり[1]、英語の母語話者であるマクドナルドから本格的に英語を学び、蘭・英2カ国語を使いこなせる通詞として活躍する。嘉永3年(1850年)には「エゲレス語和解」の編集に従事し、嘉永6年(1853年)のプチャーチン来航の際は川路聖謨の通詞として活躍する。また、オランダの地図に樺太の日露国境が北緯50度線となっていることを発見する。これが、日本の対露国境の根拠となる。

同嘉永6年(1853年)にマシュー・ペリー率いる4隻のアメリカ東インド艦隊が来航した際に、アメリカ側の通訳官ポートマンと浦賀詰通詞の堀達之助阿蘭陀通詞)がオランダ語で交渉を行った。この交渉の際にオランダ語では足りないと考えた幕府は英語に通じる阿蘭陀通詞の西吉兵衛(西成量)と栄之助を江戸に呼んだものの、2人が江戸に到着した際にはペリー艦隊は日本を去った後だった。この時、ペリーは浦賀奉行に国書を渡し、再度回答を受け取りに再び来航すると言い、日本を離れた[2]

嘉永7年(1854年)にペリーが再来航した際には通訳を務め[3]、その後江戸に英語塾を開く。塾は小石川(現・文京区春日二丁目)の金剛寺坂上にあった自宅に開設し[4][5][6]、門下生として津田仙福地源一郎須藤時一郎沼間守一(須藤時一郎の弟)、富永冬樹矢野二郎の実兄[7])などが学んだ。また、福澤諭吉も森山の英語指導を求めて、鉄砲洲の中津藩屋敷から歩いて日参し、短期間ではあったが学んでいる[6]

文久2年(1862年)には開港延期問題で渡欧した竹内保徳遣欧使節団の通訳としてオールコックと同船でイギリスに赴き、使節一行とロンドンで合流する。その後、各国を巡り帰国。帰国後は通弁役頭取、外国奉行支配調役などを歴任すると共に、万延元年(1860年)の大統領への英文書の作成にも活躍する。しかし、維新後は新政府に仕えることはなかった。墓所は東京都豊島区巣鴨五丁目の本妙寺。長崎の本蓮寺にも分骨が納められた墓がある。

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森山栄之助(多吉郎)の墓(東京巣鴨本妙寺
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門下生の外交での活躍

森山が江戸小石川で開いた英語塾からは、江戸幕府や明治政府の使節団の一員として外交官、通訳としても活躍した人材を多く輩出した。森山自身も前述のとおり幕府の文久遣欧使節に通訳として参加し、渡欧している。

主な門下生[6]
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森山栄之助が登場する作品

顕彰碑

森山が学んだラナルド・マクドナルドが英会話教室を開設した長崎・崇福寺の末寺であった大悲庵跡(現・長崎市上西山町)には、ラナルド・マクドナルド顕彰碑(1994年11月11日建立)が建てられているが[9]、その顕彰碑と並んで2014年9月に森山栄之助顕彰碑(2014年9月13日建立・除幕式)が建てられた[10][11]

参考文献

  • 松尾龍之介『長崎蘭学の巨人』弦書房、2007年。ISBN 978-4-902116-95-3
  • 江越弘人『幕末の外交官 森山栄之助』弦書房、2008年。ISBN 978-4-86329-003-7

脚注

外部リンク

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