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横浜丸 (2代)
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日本郵船の欧州航路の香取丸型、諏訪丸型の整備と同時期に北米航路の船質改善のため、1910年(明治43年)7月に6,300トン級の貨物船として2隻計画されたうちの1隻だが、1911年(明治44年)11月に貨客船に設計変更された[9]。船型は「賀茂丸」をはじめとした欧州航路の貨客船が三島型であるのに対して、横濱丸は遮浪甲板を有する平甲板型を採用した[10]。また、3番船口用の荷役装置として汽動クレーンを装備した[9]。川崎造船所建造の「静岡丸」は姉妹船[1]。
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船歴
三菱造船所で建造され、1910年(明治43年)10月25日起工、1912年(明治45年)1月30日に進水し、同年5月14日に竣工した[3]。
竣工した「横浜丸」はシアトル航路に就航し、リバプール・ロンドン線で運行されていた時期を挟んで1932年(昭和7年)までシアトル航路で運航され、それから南洋航路東廻線に移った[4]。1937年(昭和12年)6月当時の東廻線は神戸・ヤルート間で運行され、寄港地は大阪(復航のみ)、門司(往航のみ)、横浜、サイパン、トラック、ポナペ、クサイであった[11]。
1919年には神戸ーコロンボ間で運行されていた事が確認[注釈 1]されており、1921年(大正10年)6月8日、コロンボからシンガポールへ向け航行中にマラッカ海峡で「印度丸」(大阪商船、7,780トン)と衝突した[13]。
1941年(昭和16年)10月10日、陸軍に徴傭される[14]。
12月10日、グアム島上陸作戦に参加した[15]。「横浜丸」など9隻の輸送船は坂出港で南海支隊を乗せ、11月26日から29日にかけて母島へ進出[16]。12月4日に船団は海軍部隊に護衛されて母島を出撃した[17]。「横浜丸」は「チェリボン丸」(南洋海運、4,031トン)、「ちゃいな丸」(川崎汽船、5,870トン)とともに第二分隊で、その上陸地点は東海岸の太郎(タロホホ)湾、入屋(イリグ)湾であった[18]。第二分隊は10日0時に泊地に進入し、続いて上陸が行われた[19]。
1942年(昭和17年)1月14日、「横浜丸」などからなる9隻の船団は南海支隊を乗せてグアム島を出撃し、ラバウル攻略に向かった[20]。上陸は22日夜から翌日未明にかけて行われた[21]。
続いてラエ・サラモア攻略作戦に参加した。ラエは海軍、サラモアは陸軍担当であった[22]。「横浜丸」と「ちゃいな丸」はサラモア攻略にあたる堀江部隊を乗せ、陸海軍の攻略部隊は3月5日にラバウルを出撃した[23]。7日午後10時30分、陸軍船団はサラモア東方泊地に進入[24]。その後上陸が行われ、8日中に飛行場、サラモア市街やケラを占領した[24]。8日の夜明け後、1機の敵機が何度か来襲して爆撃を行い、「横浜丸」は3度爆撃を受けて戦死者7名負傷者8名を出した[25]。「横浜丸」は巡洋艦「夕張」工作隊による応急修理を受けた[26]。
3月10日、ラエ、サラモアは空襲を受けた[27]。この空襲で「横浜丸」は爆弾4発を受け、沈没した[28]。戦死者1名[29]。
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脚注
参考文献
外部リンク
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