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橘家圓三郎
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橘家 圓三郎(たちばなや えんさぶろう)は落語の名跡。過去3代目まで存在しているが、現在は空位。3代目は上方の落語家。

こので示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
- 初代橘家圓三郎 - 本項にて記述。
- 2代目橘家圓三郎 - 後の初代橘ノ圓。
- 3代目橘家圓三郎 - 本項にて記述。
初代
初代橘家 圓三郎(1828年(文政11年) - 1886年(明治19年)8月8日[1])は幕末・明治期の落語家。本名:林三之助[1]。
最初は天狗連「中橋連」で三之助ないし夢三郎を名乗っていたという[1]。玄人としては幕末期4代目三笑亭可楽(爆弾の可楽、3代目朝寝坊むらく)の門下になり三笑亭可久寿(可久壽)となる[1]。元治ころに夢輔(亭号不明)[1]。師匠可楽が幕府に爆弾を仕掛け後に捕縛され、佃島送りにされた明治5年ころに佃島で可楽が三遊亭圓朝に手紙で墾請した、承諾した圓朝は弟子として迎え入れ圓三郎の名を与えた。狭い寄席の高座では腰を据えたまま踊る寄席踊りが重宝された。圓三郎はその踊りが名人だったという。後に寄席坐り踊りの祖と称される。
没後1898年に供養のために浅草土富店お祖師様の境内に師・圓朝の題字の「踊塚」が建立された。
坐り踊りと圓三郎の名は同門の朝治(後の初代橘ノ圓)が継承した。弟子には橘家三好(後の柳家三好、中田宗太郎)がいた。
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3代目
3代目橘家 圓三郎(1881年(明治14年) - 1920年(大正9年)1月7日)は明治末・大正期の落語家。本名:山本庄太郎。
入門時期不明、明治30年代に7代目桂文治の門下で桂團三郎、1905年に三遊亭圓子の門下で三遊亭圓三郎となる。1908年8月ころ九州で巡業中、初代桂三輔(後の初代桂ざこば)の門下で桂三笑に改名し、幇間に転身する。
橘ノ圓都の回想では、圓都が文治(当時は2代目桂文團治)に入門した当時は兄弟子で、前座修行の厳しさに耐えかねて一緒に脱走して、大阪で江戸落語を演じていた三遊亭圓子の一座に加わったという[2]。その後圓都がいったん神戸の実家に戻った折、九州にいた圓三郎から「座員をこしらえて門司へ来てくれ」との手紙を受け取り、10人ほどの一座を組んで九州を巡業した[2]。
1910年ころに大阪に戻り桂三升で互楽派に加入、1911年に神戸の吉原派の寄席に出演、1912年10月に初代橘ノ圓の門下で師の前名の3代目橘家圓三郎を襲名した。
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脚注
参考文献
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