トップQs
タイムライン
チャット
視点
桂文治 (7代目)
ウィキペディアから
Remove ads
7代目 桂 文治(かつら ぶんじ、1848年5月17日[要出典](嘉永元年4月15日[要出典]) - 1928年(昭和3年)9月18日[1])は、上方落語の落語家。本名は平野 治郎兵衛(次郎兵衛、治良兵衛、治良平など資料により複数の表記あり)[1]。娘婿は大八会太夫元の平野三栄[要出典]。
Remove ads
来歴・人物
要約
視点

先祖は紀州藩士北川家で、父の職業は人入れ家業(手配師)だったという[要出典]。13歳の時から奉公に出て[1]、1866年[要出典]、19歳で江戸の甲州屋の手代[2]、または大名行列の荷物の宰領をしていたという[要出典]。22歳の時に帰阪し、平野家の養子になり米屋や土方請負などを営むが、いずれも失敗した[1]。
最初は天狗連に出ていた[要出典]。1875年3月、初代桂文團治に入門し、桂都雀となる[1]。1880年に真打格になり、その後、1885年秋に[要出典]桂順枝となる[1]。このころ師匠と疎遠になったが、翌年には師と再び行動をともにするようになり[要出典]、初代桂亭米喬を名乗る[1]。次いで初代桂米團治となる[1]。
1887年、2代目文團治を襲名[1]。初代桂文枝没後に桂派が内紛状態になると、2代目月亭文都、初代笑福亭福松らとともに三友派を立ち上げ、袂を分かつ[1]。
1892年、自派の亭号を一時「桂亭」として[1]、1年ほど名乗る[要出典]。同年、弟弟子の初代桂歌團治が2代目文團治の看板を勝手に掲げたとして裁判沙汰となり、歌團治は敗訴により5代目笑福亭吾竹を名乗る[1]。1902年には看板の大小で初代福松と争い、9月に約30人の弟子とともに「大阪三友派」を結成し分派するが、初代福松の没後、翌年9月には復帰した[1]。
1908年11月、東京の6代目桂文治から7代目文治を譲り受け、弟子の2代目桂米團治が3代目桂文團治を、6代目文治が3世桂大和大掾を同時襲名し、一代限りではあるが、上方発祥の大名跡を取り戻した[1]。ただし、この時に先代が残した多額の借金も相続したといわれる[誰によって?]。この襲名は3代目柳家小さん、4代目柳亭左楽の周旋であったという[3]。その際の襲名記念の碑(文治を襲名したことで文團治を米團治に譲ったという内容)が法善寺境内に建てられ、写真は『落語系圖』のp.87に掲載されている[4]。襲名挨拶は大阪で3人が揃っておこなわれた[1]。
1918年5月、紅梅亭の昼夜引退興行では、直弟子で後に東京に行った2代目桂米丸、4代目橘家圓蔵、直弟子ではないが一門に名を連ねていた初代桂春團治が駆けつけ、口上の席に並んだ。引退後は三友派からの月々100円の年金で生活をしていた。[要出典]
上町の徳井町に居住し、花月亭九里丸によると、上方落語の演目に度々登場する「上町のおっさん」は7代目文治に由来するという[1]。
三友派の総帥として、一門は直弟子、準弟子、孫弟子以降も含めると100人を越え、権勢を誇ったが、愛弟子3代目文團治に先立たれ、晩年には三友派も吉本興業に吸収合併され、一門はばらばらとなり、孤独な最後であったという[要出典]。
無愛想な上に早口で声が甲高くて、その芸風に言及されることはあまりないが、十八番の子どもや武士が登場する『三十石』『野崎詣り』『佐々木裁き』『住吉駕籠』などは巧みな噺振りであったという。ただし女や粗忽者を演じるのは苦手であった。現在のところSPレコードなど録音は確認されていない。[要出典]
墓所は天王寺円成院[要出典]。
あだ名は皮肉や小言めいた言葉を口にしたことから「大毛虫」で、同じような口癖だった弟子の3代目米團治は「小毛虫」と呼ばれたという[5]。
Remove ads
一門
要約
視点
主な門下
- 桂文治郎
- 3代目桂文團治
- 2代目桂米喬
- 桂家雁篤
- 初代桂梅團治
- 初代桂文雀
- 初代桂花團治
- 初代桂菊團治
- 2代目桂菊團治
- 三升家紋右衛門
- 初代桂花咲
- 2代目桂玉團治
- 初代桂春團治
- 三遊亭小圓
- 2代目桂小文治
- 桂團三郎
- 橘ノ圓都
- 桂家残月
- 末廣家扇蝶
- 桂團輔
- 桂米若
- 2代目立花家花橘ら
他にも『落語系圖』には、笑團治(後の桂生瀬)、代外の「零代」春團治(宍喰屋橋・圭春亭席亭)、松團治(桂小文字、後の「初代」小春團治の父)、玩三、文朝、團八、團之助(後の團好)、團松、團二、團鏡、團楽、團幸、團橘(5代目笑福亭松鶴の楽語荘の同人)、團勇、小だん、若三郎、團若、團治、團昇らの名が掲載されている。
没後文治の名跡は6代目文治の養子が8代目文治を襲名し、文治の系統は再び江戸系統に戻る。しかし、1979年に2代目小文治(小文治一門)門下の桂伸治が10代目文治を襲名。10代目没後、その弟子の桂平治が2012年に11代目文治を襲名した。このように現在も文治の名跡は江戸噺家が継いでいるが、従来の江戸系統ではなく7代目文治の系統になる。
また、上方の米朝一門、春団治一門、小文治一門はともに文治の直系の弟子にあたる。東西双方に跨る一門の総数は全員合わせると150名以上に及び、現在でも落語界の一大勢力となっている。
系図
Remove ads
演じた人物
脚注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads