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桂文治 (7代目)
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七代目 桂 文治(かつら ぶんじ、1848年5月17日(嘉永元年4月15日) - 1928年(昭和3年)9月18日)は、大阪の落語家。本名は平野 次郎兵衛。
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人物
要約
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本名: 平野次郎兵衛(治郎兵衛、治良兵衛、治良平など諸説あり)。享年81。娘婿は大八会太夫元の平野三栄。
先祖は紀州藩士北川家で、父の職業は人入れ家業(手配師)だったという。1860年、13歳の時から奉公に出て、1866年、19歳で江戸の甲州屋の手代、または大名行列の荷物の宰領をしていたという。22歳の時に帰阪し、平野家の養子になり米屋や梅田界隈の土方請負などを営むが、いずれも失敗。
最初は都雀の名前で天狗連に出ていた。1875年3月、初代桂文團治の門下で初代桂米團治を名乗る。1880年に真打格になり、その後、1885年秋に桂順枝となる。このころ師匠と疎遠になったが、翌年には師と再び行動を共にするようになり、初代桂亭米喬を名乗る。1887年、2代目文團治を襲名。初代桂文三が2代目桂文枝を襲名後は、2代目月亭文都、初代笑福亭福松、3代目笑福亭松鶴らと共に三友派を立ち上げ、桂派と袂を分かつ。
1892年、亭号を一時「桂亭」として1年ほど名乗る。同年、弟弟子の初代桂歌團治が2代目文團治の看板を勝手に掲げたとして裁判沙汰となり、歌團治は敗訴により5代目笑福亭吾竹を名乗る。1902年には看板の大小で初代福松と争い、約30人の弟子とともに「大阪三友派」を結成し分派するが、初代福松の没後、翌年には復帰。
1908年11月、東京の6代目桂文治から7代目文治を譲り受け、弟子の2代目桂米團治が3代目桂文團治を、6代目文治が3世桂大和大掾を同時襲名し、一代限りではあるが、上方発祥の大名跡を取り戻した。ただし、この時に先代が残した多額の借金も相続したと言われる。この襲名は3代目柳家小さん、4代目柳亭左楽の周旋であったという。その際の襲名記念の碑が法善寺境内に建てられ、写真は『落語系圖』p87に掲載されている。
1918年5月、紅梅亭の昼夜引退興行では、直弟子で後に東京に行った2代目桂米丸、4代目橘家圓蔵、直弟子ではないが一門に名を連ねていた初代桂春團治が駆けつけ、口上の席に並んだ。引退後は三友派からの月々100円の年金で生活をしていた。
上記の数々のエピソードからも分かるように、非常に独立心が強く、親分肌、短気で、また政治的手腕に長けた人物であった。容貌魁偉で威圧的な雰囲気を持ち、住所から「上町の師匠」と呼ばれて恐れられ、上方落語のネタに度々登場する「上町のおっさん」は、この文治のことである。初代桂春團治を初め多数の弟子を育て、一門を従えて大手を振って街を闊歩していたという。
三友派の総帥として、一門は直弟子、準弟子、孫弟子以降も含めると100人を越え、権勢を誇ったが、愛弟子3代目文團治に先立たれ、晩年には三友派も吉本興業に吸収合併され、一門はばらばらとなり、孤独な最後であったという。
無愛想な上に早口で声が甲高くて、その芸風に言及されることはあまりないが、十八番の子どもや武士が登場する『三十石』『野崎詣り』『佐々木裁き』『住吉駕籠』などは巧みな噺振りであったという。ただし女や粗忽者を演じるのは苦手であった。現在のところSPレコードなど録音は確認されていない。
墓所は天王寺円成院。
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一門
演じた人物
出典
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