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橘常主

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橘 常主(たちばな の つねぬし)は、平安時代初期の貴族。名は当主(あてぬし)とも記される。参議橘奈良麻呂の孫。兵部大輔橘島田麻呂の六男[1]官位従四位下参議

概要 凡例橘常主, 時代 ...

経歴

大学少允式部丞蔵人を経て、弘仁8年(817年従五位下少納言に叙任される。

弘仁9年(818年権左少弁、弘仁10年(819年蔵人頭兼左中弁に任ぜられるなど、嵯峨天皇に側近として仕える一方、近衛少将式部大輔修理大夫中務大輔なども兼ねる。また、弘仁12年(821年)正月に正五位下、同年4月には従四位下と嵯峨朝末に急速に昇進し、弘仁13年(822年橘氏としては祖父・橘奈良麻呂以来73年ぶりに参議に任ぜられ公卿に列した。この間、嵯峨天皇の命令により藤原冬嗣らと共に『弘仁格式』の編纂に参画している[2]

淳和朝では、議政官として弾正大弼下野守を兼ねる。天長元年(824年)守・介の任期を4年から6年に延長したほか、諸公卿の提言を入れて国司に関する新たな制度が定められているが、このうち以下については常主の提言が採用されている[3]

天長3年(826年)6月2日卒去享年40。最終官位は参議従四位下行弾正大弼兼下野守。を積みその上に座して焼死したという[7]

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官歴

注記のないものは『公卿補任』による。

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系譜

脚注

参考文献

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