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武延秀
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経歴
武承嗣の子として生まれた。天授元年(690年)、淮陽郡王に封じられた。聖暦元年(698年)、東突厥の黙啜が娘をとつがせて和親を結びたいと求めてくると、武則天の命により延秀が右豹韜衛大将軍の閻知微とともに東突厥に赴き、黙啜の娘を延秀の妻に迎えようとした。しかし黙啜が延秀と閻知微を捕らえ、趙州や定州などに侵攻したため、延秀は長らく帰国できなくなった[2][3]。
神龍元年(705年)、黙啜が講和を求め、先んじて延秀を送還すると、ようやく帰国できた。恒国公に封じられ、左衛中郎将に任じられた。ときに延秀の従兄の武崇訓が安楽公主の夫であり、延秀はたびたび安楽公主の邸に招かれていた。延秀は長らく東突厥にいたため、突厥語を解し、安楽公主の邸で突厥の歌を唱い、胡旋舞を踊ってみせたため、安楽公主はこれを喜んだ。武崇訓が死去すると、延秀は安楽公主を妻に迎えた[2][3]。
延秀は太常寺卿に任じられ、右衛将軍・駙馬都尉を兼ねた。金城坊に壮麗な邸宅を造営した。安楽公主が男子を産むと、中宗と韋皇后がその邸に行幸し、宋之問・沈佺期・張説・閻朝隠ら数百人がその男子を詩に賦した[4][3]。
延秀は恩顧を恃んで、行動は放縦で遠慮がなかった。またひそかに武周の復興を企てていた。景龍4年(710年)6月、韋皇后が中宗を毒殺して、臨淄郡王李隆基の起兵により敗死すると、延秀は安楽公主とともに粛章門で斬り殺された[4][3]。
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脚注
伝記資料
参考文献
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