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武政恭一郎
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武政 恭一郎(たけまさ きょういちう、1868年8月24日(明治元年7月7日)[1] - 没年不明)は、日本の実業家、素封家[2]、地主[3]。族籍は埼玉県平民[1][4][5]。
経歴
埼玉県平民・武政伊三次の長男[1][5]。埼玉県師範学校出身[2]。漢学を修める[6]。東京に遊学し、法学院に学び[6]、諸大家の門に入り、大に得る所があり、帰郷して専ら家政を勤め、村内公共事業に尽力する[7]。1911年、家督を相続する[1][8]。
銀行会社の重役である[1]。深谷銀行、東洋絹糸紡績、利根軌道、埼玉興業、本庄電気軌道、利根発電、東京電燈各取締役[1][4][5]、利根発電監査役[9]などをつとめた。
人物
武政恭一郎について、1927年に刊行された『帝国信用録 第20版』には「職業・農、会社役員」[10]、1929年に刊行された『日本紳士録 第33版』には「銀行員」とある[11]。
埼玉県内屈指の財産家である[7]。趣味は囲碁、歌道[2]。埼玉県在籍で[3]、住所は埼玉県大里郡榛沢村[1][2][4]大字榛沢[9](現・深谷市)、東京府北豊島郡王子町下十条[8]、上十条[6][11]。
家族・親族
- 武政家
家系について、『昭和人事総覧』によると「榛沢は畠山重忠の老臣榛沢六郎が生れた土地で、武政家も恐らくその当時から此の地方に居住されたことであろう。その後徳川時代に入り、同地方が旗本の采地となるに及び、金御用達を命ぜられたこともあり、その後三代に亘り名主を勤役したこともある」という[6]。
- 父・伊三次[12](埼玉平民[1][5]、深谷銀行取締役[13])
- 継母・かね(1852年 - ?、埼玉、笠間縫の伯母)[1][4]
- 妻・やゐ(1875年 - ?、埼玉、須田秀實の三女)[1][4]
- 二男・俊次[4][5][11](1894年 - ?)
- 三男・郁三[4](1897年 - ?、資産家[8]、榛沢村長[14])
- 二女・富貴(1899年 - ?、埼玉、長島作左衛門の妻)[3]
- 孫[8]
- 親戚
脚注
参考文献
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