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武田信興
江戸時代の高家旗本、信玄の玄孫 ウィキペディアから
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武田 信興(たけだ のぶおき、寛文12年(1672年) - 元文3年7月9日(1738年8月23日))は、江戸時代の高家旗本。武田信正の子で、武田信玄の玄孫にあたる。初名は信冬。通称は虎之助、織部。
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父の信正は60歳を越えた寛文3年(1663年)3月に、50年近く配流されていた伊豆大島から赦免されたのち、磐城平藩主内藤忠興に預けられた。内藤は信正を娘婿とし、その間に生まれたのが信興である。貞享元年5月9日(1684年6月21日)に信正が死去したのち、信興は幕閣の権力者であった柳沢吉保が引き取り、柳沢の屋敷に寓居した。
元禄13年(1700年)12月27日、幕府に召し出されて、甲斐国八代郡内500石を与えられ、寄合に所属する旗本となった。元禄14年(1701年)1月15日、将軍徳川綱吉に御目見した。同年9月11日、表高家衆に列することとなった。
こうして武田氏は高家旗本として再興したが、信興自身は生涯高家職に就くことはなかった。甲斐武田氏の再興および高家入りは、武田旧家臣を自認する柳沢吉保の強い意志があったと推測される。 宝永2年(1705年)8月19日、領地を相模国高座郡内に移された。
元文3年(1738年)7月9日死去、享年67。葬地は芝の西信寺。長男信安が家督を相続した。
正室は大久保忠鎮の娘。
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