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江連堯則
江戸時代の武士 ウィキペディアから
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江連 堯則(えづれ あきのり/えづれ たかのり、天保2年9月(1831年10月)[1] - 大正6年(1917年)7月[2])は、幕末の武士(幕臣)、明治時代の官僚。通称は真三郎、官職は加賀守、位階は従五位下[2]。族籍は東京府士族[1]。
経歴
江戸に生まれる。八王子千人頭を務めた原胤禄の三男で[2]、原半左衛門[注釈 1]の弟。畳奉行や書物奉行などを務めた江連茂堯の養子となる[2][3]。
嘉永6年(1853年)の学問吟味で乙科に評され、洋書調所頭取、目付を経て外国奉行となる[2]。元治元年(1864年)8月英・仏・米・蘭の四国艦隊下関砲撃事件や密貿易事件等で英、仏、米公使と折衝した。慶応4年4月5日(1868年4月27日)開成所頭取[3]となるが1週間で役替となる。明治維新時、徳川家の静岡移封に際して静岡に移住し、静岡学問所の教授を務めた[4]。
後に東京へ戻り、東京府本所区書記、東多摩・南豊島郡長を務めたほか、文部大臣官房[5]や農商務大臣官房に勤務した[6][注釈 2]。
家族
脚注
参考文献
関連項目
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