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池原禾守

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池原 禾守(いけはら の あわもり)は、奈良時代貴族。名は粟守とも記される。上毛野公のち池原公官位従五位下主計頭

概要 凡例池原禾守, 時代 ...

経歴

孝謙朝後半に遠江員外少目淳仁朝前半は紫微少疏(のち坤宮少疏)を務め、天平宝字4年(760年)ごろ従五位下に叙せられる。この頃、東大寺関係の職務を担当し、禾守の名前が『正倉院文書』に頻出している。またこの間の天平勝宝7歳(755年)には上毛野公から池原公に改姓した。

大外記を経て、天平宝字7年(763年讃岐介に任ぜられると、翌天平宝字8年(764年美濃介と淳仁朝末にかけて地方官を務める(地方官は大外記との兼務の可能性もある[1])。同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱においては、美濃守・藤原執棹は戦死、美濃少掾・村国島主は孝謙上皇側から派遣された固関使に殺害されている一方、美濃介の任にあったと思われる禾守の動静は伝わらず、処罰や恩賞を受けた形跡がない。なお、この間の天平宝字7年(763年)には金体信ら新羅使が来朝したため、左少弁大原今城と共に派遣され、使節派遣の事情を問うている[2]

称徳朝の天平神護3年(767年内位の従五位下に叙せられる。その後、大外記を務めながら、造西隆寺次官右平準令播磨介などを兼帯した。

光仁朝でも主計頭・大外記と京官を務めている。

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官歴

注記のないものは『続日本紀』による。

脚注

参考文献

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