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池松豊記
明治期のジャーナリスト、農業経営者、政治家 ウィキペディアから
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池松 豊記(豐記、いけまつ とよき、1846年7月23日(弘化3年6月1日[1][2])- 1921年(大正10年)9月13日[3][4][5][6])は、明治期のジャーナリスト、農業経営者、政治家。衆議院議員、熊本県球磨郡上村長。
経歴
肥後国玉名郡上小田村(熊本県[6]玉名郡上小田村[7]、小田村[3][4][5]を経て現玉名市[4][5]上小田)で、医師・池松玄操の二男として生まれた[2][3][4][5]。
明治の初めころに東京に出て自由民権運動に加わる[3][4][5][6]。1875年(明治8年)評論新聞が創刊され、記者となる[3][5]。西南戦争後に帰郷し、民権活動家に呼びかけ1878年(明治11年)5月、民権結社・相愛社を組織し社長に就任[3][4][5][6]。1881年(明治14年)7月、その機関紙「東肥新報」発刊して民権思想を広めた[3][4][5]。1882年(明治15年)2月、相愛社は実学党と公議政党を形成し、その後、九州改進党となった[3][4][5]。
1880年(明治13年)以降[注釈 1]、富岡敬明熊本県知事の勧めで士族授産金を得て球磨郡上村(現あさぎり町)神殿原(こうどんばる)に開墾社を設けて入植し、池松は中根正胤と共にこの地に最後まで留まった[3][4][5]。1900年(明治33年)11月、上村長に就任した[3][4][5][6][7]。
1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙(熊本県郡部、立憲政友会)で初当選し[2][3][4][5][8]、その後、第9回総選挙まで再選され[8]、衆議院議員に連続3期在任した[5][6][7]。
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国政選挙歴
- 第1回衆議院議員総選挙(熊本県第2区、1890年7月、自由派)次点落選[9]
- 第2回衆議院議員総選挙(熊本県第3区、1892年2月、自由党)次点落選[9]
- 第7回衆議院議員総選挙(熊本県郡部、1902年8月、立憲政友会)当選[8]
- 第8回衆議院議員総選挙(熊本県郡部、1903年3月、立憲政友会)当選[8]
- 第9回衆議院議員総選挙(熊本県郡部、1904年3月、立憲政友会)当選[8]
脚注
参考文献
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