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第1回衆議院議員総選挙
1890年に行われた日本の衆議院選挙 ウィキペディアから
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第1回衆議院議員総選挙(だい1かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1890年(明治23年)7月1日に日本で行われた帝国議会(衆議院)議員の総選挙である。
概要
1889年(明治22年)2月11日に公布された大日本帝国憲法及び衆議院議員選挙法に基づいて、日本で初めて行われた民選選挙である[注釈 2]。
自由民権運動、大同団結運動を経て分裂した旧自由党系の自由党、大同倶楽部、愛国公党の3党や立憲改進党、九州同志会などが選挙に臨んだ[1]。
選挙データ
内閣
投票日
改選数
- 300
- 1人区:214
- 2人区: 43
選挙制度
- 小選挙区制(一部2人区制)
投票方法
選挙権
被選挙権
有権者数
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選挙活動
- 立候補者数:1,243
- 納税資格に満たない者も、資産家の養子になったり、資産家から推されて財産名義の書き換えをしてもらったりして資格を作ることができた。
選挙結果
党派別獲得議席
都道府県別獲得議席
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- ※ 総選挙後の所属党派
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議員
要約
視点
当選者
大成会 国民自由党 立憲自由党 立憲改進党 無所属 ※ 総選挙後の所属党派
- 備考
- 単純平均で人口13万人あたり1人の議員が選出されたことになるが、概ね都市部に有産者(直接国税15円以上を払える富裕層)が少なく、寄生地主や製糸業者などが多い農村部に有産者が多かったため、農村部では数百から数千票を得ないと当選に至らなかったが、都市部では数十票程度で議員になることが出来た。
補欠・更正当選
現職議員が死去あるいは辞職した場合、補欠選挙が実施された。複数の選挙区で当選した人物が辞退した選挙区では再選挙が行われる。当選訴訟によって当選無効となった場合、裁判所の判決にもとづいて当選者が変更される。これを「更正」という。ただし、失格となった当選者も更正までは正当な当選者として議席を有するため選挙時の当選者として扱われる。『議会制度七十年史』、『議会制度百年史』などの文献では、その区分が不明確であり、また誤りが散見されるため注意を要する[3]。
記録的当選・落選者
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選挙後
要約
視点
政党
総選挙後、九州連合同志会から改称した九州同志会が旧自由党系3党、改進党との合流を目指した。改進党は最終的に合流を断念したものの4党で立憲自由党を結成(院内会派は「弥生倶楽部」)。改進党は単独勢力で会派「議員集会所」を設立。中立派議員を中心に会派「大成会」、大同倶楽部の後藤象二郎が脱党して創設した国民自由党と、衆議院の勢力は3党1会派に再編された[12]。
帝国議会
- 第1帝国議会
- 会期:1890年(明治23年)11月25日
- 第1回投票(連記投票、投票者数:292、過半数:147)
- 第1回決選投票(連記投票、投票者数:292、過半数:147)
- 中島信行(弥生倶楽部):161票
- 津田真道(大成会) :151票
- 松田正久(弥生倶楽部):141票
- 楠本正隆(無所属) :138票
- 河野広中(弥生倶楽部):123票
- 芳野世経(大成会) :101票
- 第2回決選投票(単記投票、投票者数:187、過半数:144)
- 松田正久(弥生倶楽部):153票
- 楠本正隆(無所属) :134票
- 選出された中島、津田、松田の中から最多得票の中島が議長に勅任された。
- 衆議院副議長選挙 - 議会で3名候補者を選出し上奏、天皇がうち1名を勅任する[14]。
- 第1回投票(連記投票、投票者数:283、過半数:142)
- 津田真道(大成会) :169票
- 芳野世経(大成会) :135票
- 楠本正隆(無所属) :129票
- 松田正久(弥生倶楽部):117票
- 河野広中(弥生倶楽部):113票
- 島田三郎(議員集会所): 60票
- 第1回決選投票(連記投票、投票者数:282、過半数:142)
- 楠本正隆(無所属) :174票
- 芳野世経(大成会) :127票
- 河野広中(弥生倶楽部):119票
- 松田正久(弥生倶楽部):118票
- 第2回決選投票(単記投票、投票者数:280、過半数:141)
- 芳野世経(大成会) :141票
- 河野広中(弥生倶楽部):137票
- 選出された津田 、楠本 、芳野の中から第1回投票で最多得票の楠本が副議長に勅任された。
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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