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池田孤邨

1801?-1866?, 江戸時代後期の江戸琳派の絵師 ウィキペディアから

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池田 孤邨(村[1])(いけだ こそん、 享和3年(1803年) - 慶応4年2月13日(1868年3月6日)[2])は、江戸時代後期の江戸琳派絵師酒井抱一の弟子で、兄弟子の鈴木其一と並ぶ高弟である。

略伝

要約
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イェール大学美術館英語版蔵『三十六歌仙図屏風』
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メトロポリタン美術館蔵『檜図屏風』

越後国水原近辺(現在の阿賀野市)出身。名は三信(みつのぶ)、三辰、字は周二、通称・周次郎。号は自然庵、蓮菴、冬樹街士(天保後期)、煉心窟(安政から文久頃)、画戦軒、天狗堂、旧(舊)松軒、久松軒など。

池田藤蔵の子として生まれる。10代後半には江戸へ出て、酒井抱一に師事したと見られる[3]。水原は天領で、越後有数の米処として、干拓新田開発が積極的に行われた。その結果、廻船業などで富を成す素封家も多く、江戸や京阪の文人墨客が水原を訪れ、逗留することも珍しくなかった。父藤蔵は水原でこうした素封家と交流があり、弧邨が若くに江戸に出るのも、水原に来訪した文化人が関与したとする説がある[4]。また、抱一の弟子で、後に孤邨の弟子となる野沢堤雨の父・九皐庵九甲の紹介とする説もある[5]。孤邨は後々まで水原との関係を保ち続ける。嘉永6年(1853年)2月に父が亡くなると、同年4月水原の古刹西福寺に父の墓碑を建立している(大橋訥庵銘文)。

文政年間前期頃に抱一に入門[6]、抱一の号の一つ「鶯邨」の1字から孤邨を名乗ったと推測される[7]。抱一の死後30代の半ばから一時深川冬木町に住み、40代後半には両国久松町に移り、没するまで過ごした。しかし、深川時代の作品は関東大震災で多くを失ったとされ[8]、動向は不明な点が多い。安政6年(1859年)刊の『書画會粹 二編』では「画名天下に高し、然れども名を得る事を好まず、戸を閉め独り楽しむ」とあり、その人物を伝えている。書画の鑑定に優れ、茶道を好み和歌に通じた教養人で、を好み「蓮菴」と号した。琳派の後継者を自認し、最晩年の元治2年『光琳新撰百図』上下(弟子の野沢堤雨跋、ボストン美術館など蔵)、慶応元年(1865年)『抱一上人真蹟鏡』上下を出版した。これらは絵手本として使用された他、ジャポニズムの機運にのって西洋に渡り、装飾美術の隆盛に寄与した。1882年にイギリス初のインダストリアルデザイナーとして活躍したクリストファー・ドレッサーが出版した『日本 その建築、美術と美術工芸』では、早くも『光琳新撰百図』が引用されている。一方、文中に「大和魂」「皇国」といった語句が散見し、孤邨が勤王思想を持っていたことが窺える。墓は江戸川区西瑞江大雲寺

孤邨は其一ほど多作ではなく、作品の質も振り幅が大きい。また、抱一や其一、酒井鶯蒲に比べて画材に劣り状態が劣化しているものが少なからずあり、彼らに比べて大名や豪商の注文が少なかったと推測される[7]。しかし、代表作「檜図屏風」(バークコレクション)には、近代日本画を先取りする新鮮な表現がみられる。弟子に中村岳陵に最初の絵の手ほどきをした野沢堤雨、木村江村、鷲孤山、胝狐仙、胝狐松、八木沢松嶺、西崑山、高橋孤道、福島孤龍など。早稲田大学図書館初代館長などを務めた市島謙吉は、数多くの印章コレクションしており、その中には同郷の孤邨の印章も37顆含まれ、現在は早稲田大学會津八一記念博物館に所蔵されている[9]

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代表作

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脚注

参考資料

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