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池田政恭

江戸時代中期から後期の大名。備中生坂藩(2人目の)5代藩主。公式には池田政弼の四男、実は池田治政の庶長男。実母は柏原氏(側室)。従五位下・山城守 ウィキペディアから

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池田 政恭(いけだ まさゆき)は、江戸時代中期から後期にかけての大名備中国生坂藩の(2人目の)5代藩主。家督相続の翌年に夭逝した池田政房の身代わりで擁立されたが、公式には同一人物とされた。

概要 凡例池田 政恭, 時代 ...
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略歴

公式には4代藩主・池田政弼の四男とされたが、実際には岡山藩池田治政が側室瀬川(柏原庸郷の娘)との間にもうけた庶長子である[1]。血統の上では、政弼と治政が共に池田綱政の曾孫という関係にある。正室は溝口直養の娘(梅岑院)。子は池田政範(長男)、池田長貞(次男)、池田政徳(三男)。官位従五位下山城守。幼名は鉄次郎、鉄三郎、永次郎、初之進。

池田家の史料である「池田氏系譜」によると、安永元年(1772年)10月11日、岡山において池田治政の長男として生まれた。治政の正室・米姫は当時懐妊中で、翌安永2年(1773年)に次男の斉政が生まれ、嫡男として幕府に届出された。安永4年(1775年)には三男の政芳が米姫の子として生まれ、届出されたが、政恭は公式には届出がなされないまま、国元の岡山で養育された[1]

生坂池田家で安永5年(1776年)7月25日に政弼が死去した際、既に嫡男として届出ずみであった政弼の次男(公式には四男)の永次郎(池田政房)が満1歳(数え2歳)で跡を継いだ。しかし、永次郎は翌安永6年(1777年)3月11日に江戸藩邸にて夭逝した。そこで年齢が近く、幕府にいまだ出生の届出がなかった池田宗家の庶子・鉄三郎が江戸へ呼び寄せられ、密かに身代わりに立てられて永次郎政房を名乗った[1]。安永8年(1779年)に通称を初之進、を政恭に改めたが、本来の政房の身代わりのため、幕府の公式記録では実際より3歳年少の安永4年生まれとされている。寛政2年(1790年)に11代将軍・徳川家斉に初御目見し、従五位下・山城守に叙任される。翌寛政3年(1791年)に岡山へ帰国する(生坂藩は岡山藩の支藩であり、藩主は岡山城下に居住した)。

文政5年(1822年)11月21日、長男の政範に家督を譲って隠居し、文政10年(1827年)7月晦日に死去した。

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系譜

実際の両親と兄弟姉妹

  • 父:池田治政(1750年 - 1819年)
  • 母:瀬川 - 柏原庸郷の娘
  • 兄弟姉妹
    • 長男:池田政恭
    • 次男:池田斉政(母は正室の米姫)
    • 三男:池田政芳(母は正室の米姫)
    • 四男:堀直温
    • 女子:晴姫
    • 女子:兼子
    • 女子:佐野茂好正室

届出上の両親と兄弟姉妹

  • 父:池田政弼(1742年 - 1776年)
  • 母:利佐姫 - 真明院、松平直純の娘
  • 兄弟姉妹
    • 長男:池田政良
    • 次男:秀次郎
      以上の2人は、池田政員の子を弟の政弼が自身の庶子と幕府に届け出た。
    • 三男:池田政峰 - 政弼の実子(庶子)
    • 四男:池田政房(政恭)

妻子

脚注

関連項目

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