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浅野長澄
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浅野 長澄(あさの ながずみ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。通称は大助(だいすけ)。備後国三次藩の第3代藩主。官位は従五位下・土佐守。
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生涯
天和元年(1681年)2月12日、第5代将軍・徳川綱吉に初御目見する。広島藩の支藩三次藩・第2代藩主で叔父の浅野長照は病弱で嫡子もなかったため、長澄が天和2年(1682年)8月6日に養子に入った。
貞享2年(1685年)12月28日、従五位下・土佐守に叙任する。元禄4年(1691年)6月5日には幕府奥詰を務めたが、12月に長照の隠居により家督を相続する。同時に奥詰を免ぜられ、藩政に集中する。元禄5年(1692年)4月21日に暇をえて国許の備後三次に初めて入った。元禄11年(1698年)に備後福山藩主水野勝岑が所領を没収された際には、福山城の城受け取りを命じられた。
元禄14年(1701年)3月14日、親戚の播磨国赤穂藩主・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及び、切腹改易となると、長矩の正室・阿久里(瑤泉院・三次藩初代藩主・浅野長治の娘)を三次藩下屋敷に引き取った(正確には事件時長澄は国許にいたので、前藩主・長照が手配した)。 江戸に居た養父・長照にも遠慮(江戸城登城禁止)処分が下された。連座を懼れた長澄は、本家広島藩が主導する大石の討ち入り阻止に協力した。しかし、元禄赤穂事件は起き、長澄もまた謹慎を命じられた[1]。
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系譜
脚注
関連項目
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