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淘綾郡
日本の神奈川県(相模国)にあった郡 ウィキペディアから
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郡域
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。
相模国で最も面積の小さい郡であったが、大部分が中郡として現存する。
歴史
- 古代の律令制下では餘綾郡(よろぎぐん・よろぎのこほり)と表記された。相模国中部、大磯丘陵南側の相模湾沿岸部をその領域とする。近世以降は淘綾郡と表記することが多くなり、明治政府による郡編制の際にもこの表記が採用された。
- 古代餘綾郡の郡衙は現在の大磯町国府本郷付近にあったと推定されている。
近代以降の沿革
- 慶應4年(1868年) - 徳川将軍家の府中藩への転封にともなう小田原藩の領地替えにより、金沢藩領以外の全域が小田原藩の管轄となる。
- 明治初年 - 大磯宿が大磯駅に改称。
- 明治2年6月23日(1869年7月31日) - 金沢藩が任知藩事にともない六浦藩に改称。
- 明治4年
- 1876年(明治9年)4月18日 - 第2次府県統合により、足柄県が神奈川県、静岡県に合併され、当郡は神奈川県の管轄となる。
- 1878年(明治11年)7月22日 - 郡区町村編制法により、行政区画としての淘綾郡が発足。「淘綾大住郡役所」が大磯宿に設置され、大住郡とともに管轄。

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行政
- 大住・淘綾郡長
『神奈川県史 別編1 人物』による[2]。
脚注
参考文献
関連項目
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