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淳祐 (南宋)

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淳祐(じゅんゆう)は、中国南宋理宗の治世に使用された元号1241年 - 1252年

西暦・干支との対照表

淳祐元年2年3年4年5年6年7年8年9年10年
西暦1241年1242年1243年1244年1245年1246年1247年1248年1249年1250年
干支辛丑壬寅癸卯甲辰乙巳丙午丁未戊申己酉庚戌
淳祐11年12年  
西暦1251年1252年
干支辛亥壬子

出来事

  • 嘉熙4年
  • 淳祐元年
  • 淳祐2年
    • 2月:モンゴル軍が淮東・四川に侵寇する。
    • 12月18日孟珙が京湖安撫制置大使、余玠が四川安撫制置使に任ぜられる。
  • 淳祐3年
    • 3月:合州の釣魚山に築城する。
    • 7月17日:大安軍がモンゴル軍により侵される。
  • 淳祐4年
    • 5月:モンゴル軍が寿春を包囲したが、呂文徳の迎撃を受けて逃げる。
    • 8月15日:州県の租税を苛酷に取ることを禁ずる詔勅が出る。
    • 12月4日宰相史嵩之が父の喪を理由に失脚する。
  • 淳祐5年
    • 5月14日:沿江・湖南・江西・湖広・両浙に輕捷戦船を建造し、遊撃の壮士を置くという詔勅が出る。
    • 7月:モンゴル軍が揚州に侵入してから去る。
  • 淳祐6年
    • 正月元日:国用所が設置される。
    • 5月22日:諸鎮に動員令を下し、辺境の守備を厳しくする詔勅が出る。
    • 9月3日:孟珙死去。後任には賈似道が京湖制置使として赴任。
    • 12月:モンゴル軍が京湖・江淮に侵寇する。
  • 淳祐7年
    • 2月8日会子の使用期限を廃する。
    • 6月27日両淮襄陽・四川に戦禍による死者の遺体を探し、これを収拾せよという詔勅が出る。
    • 8月:呂文徳が泗州にてモンゴル軍を撃退する。
  • 淳祐8年
  • 淳祐9年
  • 淳祐10年
    • 2月9日:沿海の山奥・海島に保甲を置き、銅銭の流出と会子の偽造を取り締まらせる。
    • 9月1日:賈似道が両淮制置大使に転任となる。
    • 11月:余玠の率いる宋軍が漢中へ北上し、興元府を攻める。
  • 淳祐11年
    • 正月28日:沿江・沿海の州郡に水軍の制を厳しくする詔勅が出る。
    • 4月17日:『淳祐条法事類』が完成される。
    • 4月27日:宋軍が襄陽を奪還する。
  • 淳祐12年
    • 2月:モンゴル軍が京湖に侵寇したが、宋軍の守備に阻まれ去る。
    • 8月25日:会天暦が施行される。
    • 8月29日:翌年より「宝祐」へ踰年改元の詔が下る。
    • 10月:成都に侵寇したモンゴル軍が敗退する。
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他の王朝

関連項目

前の元号
嘉熙
中国の元号
南宋
次の元号
宝祐
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