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清原枝賢
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清原 枝賢(きよはら の えだかた/しげかた)は、戦国時代から安土桃山時代の儒者。明経博士。初名は頼賢、法名は道白。
経歴
清原業賢の子[3]。清原国賢、清原マリアの父。清原宣賢の孫にあたる[3]。
『中庸』や『古文孝経』を朝廷だけでなく、能登の畠山義総や越前の朝倉孝景、義景親子に招かれて講じるなど、各地の諸大名と関わりを持った[4]。さらに、松永久秀によって芥川山城や滝山城に招かれたこともある[4]。丹波守護代となっていた内藤宗勝から丹波支配の模範とするために枝賢に後成敗式目の注釈書を求めていた。枝賢は一子相伝の奥義であるが断れないとして、遣わしている[4]。永禄6年(1563年)、枝賢は久秀の元に身を寄せている[4]。また、松永久通に建武式目の写本を求められた[4]。さらに、三好長逸から建武式目の写本を求められた際は当家秘伝のため他人に見せないよう注意している[4]。
武家の法令だけでなく、枝賢は堺の豪商阿佐井野氏とともに『天文版論語』を出版しており、これを用いて久秀の家臣の楠正虎、正種兄弟に講じた[4]。また、正虎は枝賢に『楠氏系図』の作成を依頼している。さらに、枝賢の教えで正虎は建武式目の写本を作成できるレベルの教養を身につけた[4]。
天正13年(1585年)には関白宣下を受けた豊臣秀吉のために、朝廷官職制度の難解な解説書「職原抄」をより平易にした「百官和秘抄[5]」を著す[6]。
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官職・位階
『公卿補任』による。
- 大永5年(1525年)2月15日 - 大炊頭・主水正に任官。
- 享禄4年(1531年)6月20日 - 従五位下に叙任。
- 天文4年(1535年)7月29日 - 従五位上に昇叙。元服し、大外記に任官。
- 天文5年(1536年)2月2日 - 穀倉院別当に任官。
- 天文7年(1538年)3月8日 - 備後介に任官。
- 天文8年(1539年)1月5日 - 正五位下に昇叙。
- 天文9年(1540年)3月21日 - 明経博士に任官。
- 天文11年(1542年)1月5日 - 正五位上に昇叙。
- 天文13年(1544年)3月19日 - 伊勢権守に任官。
- 天文15年(1546年)7月23日 - 従四位下に昇叙。
- 天文17年(1548年)3月23日 - 伊予介に任官。
- 天文19年(1550年)1月7日 - 従四位上に昇叙。
- 天文20年(1551年)3月30日 - 正四位下に昇叙。
- 永禄2年(1559年)月日不明 - 弾正少弼に任官。
- 永禄2年(1559年)11月11日 - 少納言・侍従に任官。
- 永禄6年(1563年)7月28日 - 宮内卿に任官。
- 天正4年(1576年)6月29日 - 従三位に昇叙。
- 天正9年(1581年)4月9日 - 正三位に昇叙。
- 天正9年(1581年)4月11日 - 出家。
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系譜
脚注
参考文献
外部リンク
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