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渡辺幸庵
1582-1711, 安土桃山時代~江戸時代初期の武将 ウィキペディアから
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渡辺 幸庵(わたなべ こうあん、天正10年〈1582年〉? [1] - 宝永8年/正徳元年〈1711年〉?[1])は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は茂、通称は久三郎、受領名は山城守または下総守、号は幸庵[2]。加賀藩士・杉木三之丞義隣による聞書『渡辺幸庵対話』(『史籍集覧』所収)によって知られるが、内容には疑問が多く、実在の旗本・渡辺茂に仮託した半ば創作の人物との見方がある[3]。

生涯

『渡辺幸庵対話』に見える経歴は次のようなものである。
天正10年(1582年)、駿河国にて誕生[2]。父は渡辺摂津守昌(まさる)[2]。
はじめ徳川家康に仕えて大番頭の一人として活躍[2]。その後徳川秀忠の下で伏見城番を勤め、大坂の陣でも供奉して軍功があり、感状を得た[2]。秀忠の子・徳川忠長が駿府藩主となるとそれに附属させられ、1万石を賜った[2]。寛永10年(1633年)に忠長が領地没収の上、切腹させられた後は、旗本に戻るよう求める上意を拒んでこれを辞退し、浪人となった[2]。
寛永14年(1637年)の島原の乱では、秀忠の茶の湯の師匠で旧知だった細川忠興の陣にいたが、翌年正月2日の総攻撃で板倉重昌が一揆勢の落とした大石に潰されて戦死すると、その遺骸を担いで運んだ[2]。板倉家の陣に重昌の遺体を運ぶとたいそう感謝され、茶代500石を賜るとの申し出があったがこれを固辞した[2]。
この後明国へ渡航[2]。西湖を見て回るのには30日をかけたという[4]。
宝永6年(1709年)加賀藩主・前田綱紀の命によって加賀藩士・杉木三之丞義隣が幸庵からの聞き取りを行い、それをまとめたのが『渡辺幸庵対話』であるという[5]。同書には上述の経歴のほか、次のような逸話などが記録されている。
- 徳川秀忠は忠長に天下を譲ると幼少時から内証で約束しており忠長に謀叛の心があったわけではない[6]。
- 予は柳生宗矩の弟子で印可を与えられている。竹村武蔵は宗矩よりも囲碁で言えば井目も強く、子に竹村与右衛門があった。
- 竹村武藏、上泉伊勢、中村与右衛門の3人は同時代の剣術の名人で、与右衛門は武蔵の弟子である。伊勢は泉州堺の住人である。
- 駿河国の山伏の娘はろくろ首だったため婿に逃げられ流浪の末江戸で死去した。吉野山の奥には住人が皆ろくろ首の村がある[7]。
- ミイラは交趾(ベトナム)と暹羅の間にある300里ばかりの砂原で見つかり、人々は丸太船に帆をかけて風で移動する[8]。
- 天竺の霊鷲山には「四至金剛噲上断塵得非擇滅」とある碑が存在し、それを打欠いて持って帰った[8]。
- 霊鷲山の本堂で瓔珞が下がっているのを引きちぎって持って帰った[8]。
幸庵は宝永8年(1711年)、130歳で死去した[2]。
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渡辺茂について
渡辺茂は『寛政重修諸家譜』に見える実在の旗本である。同書によればその経歴は、渡辺久左衛門信の三男で、新蔵・久左衛門を名乗ったという。家康・秀忠に仕え、姉川の戦い・三方原の戦い・小田原征伐・関ヶ原の戦い・大坂の陣などに供奉。慶長10年(1605年)大番頭となり、従五位下山城守に叙任。元和5年(1619年)駿府城番、さらに二条城番となり7000石を与えられた。養子・忠が徳川忠長に附属させられると5000石を分与し、このとき新恩5000石を賜り近江国で7000石を知行し寛永13年(1636年)致仕。寛永15年(1638年)1月4日死去。享年88。法名は玄心[9]。
なお生年は逆算すると元亀2年(1571年)となる。渡辺幸庵の前半生や姓名は渡辺茂に酷似していることから、幸庵の経歴は茂に仮託したものの可能性がある[3]。
笠谷和比古は渡辺茂の子・忠(ただ)が幸庵に比定しうるとしている[1]。
忠は『寛政重修諸家譜』によれば戸田与五右衛門忠勝の次男として生まれ、渡辺茂の養子となった。上野国で300石を賜ったのち、関ヶ原の戦いや大坂冬の陣に父とともに供奉。大坂夏の陣で父に代わって従軍し首級2つを挙げる戦功を立てて相模国に100石を加増。元和5年(1619年)に駿府定番となり1000石を加増される。寛永2年(1625年)徳川忠長に附属させられて大番頭となり父から5000石を分与されるとともに、自身の長男・善に500石を分与し次男・重を忠長に附属させた。忠長が改易となるにあたり大関高増に預けられ、下野国那須に蟄居した。息子に戸田茂睡[9]。
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小説
脚注
参考文献
外部リンク
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