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渡部慶之進
台湾総督府専売局、交通局の官僚 ウィキペディアから
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渡部 慶之進(わたなべ けいのしん、1897年(明治30年)5月2日 - 1976年(昭和51年)2月12日は、大蔵省専売局、台湾総督府専売局、交通局の官僚。戦後に高砂香料工業の取締役会長などを務めた実業家。位階および勲等は従四位・勲三等。
人物
元松江藩士で、小学校教師や郡官吏を務めていた渡部善継の三男として生まれる。父の兄は教育者で県議会議員となった渡部寛一郎。第三高等学校、東京帝国大学卒業後、大正12年、大蔵省専売局に勤務し、高等文官試験に合格している。1925年(大正14年)台湾総督府専売局が優秀な人材を内地に求めていたところ、該当の人材ということで移籍する。このとき専売局長は渡部の移籍話を躊躇するほどであった。そのため移籍後は特別の優遇の方法を講ぜられたいと申し送りしている[1]。1933年(昭和8年)総督府鉄道部に移り、庶務課長から鉄道部長を務めるが、病気のため退官する。 戦後、1949年(昭和24年)に「旧日本占領地域に本店を有する会社の本邦内にある財産の整理に関する政令(昭和24年8月1日政令第291号)[2]が公布されると、台湾だけでなく旧外地に本店を持つ企業の日本国内財産の整理を代表して行う特殊整理人に就任した。ここで数百社の整理を行う。その外、高砂香料工業株式会社の監査役、取締役、会長のほか、大和樟腦株式会社社長、亜南産業社長を務める[3]その他数社の代表取締役を務めた。著書として「台湾鉄道読本」(春秋社)1939年があり、本書は2006年に台湾國史館文献館から中国語訳も出版されている。 趣味はゴルフで、戦前は台湾ゴルフ倶楽部の理事も務めている[4]。
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経歴
要約
視点
- 1897年(明治30年)5月2日 - 島根県松江市松江市で出生。
- 1919年(大正8年)7月2日 第三高等学校第一部甲類を卒業する。[5]
- 1922年(大正11年)
- 1923年(大正12年)7月23日 専売局副参事に任命され、福岡地方専売局勤務を命ぜられる。[9]
- 1924年(大正13年)12月8日 福岡地方専売局長心得を命ぜられる(12月20日まで)。[10][11]
- 1925年(大正14年)
- 1927年(昭和2年)7月27日 台湾総督府専売局樟腦課長を命じられる。[15]
- 1928年(昭和3年)9月18日 台湾総督府専売局庶務課長兼務を命ぜられる。[16]
- 1929年(昭和4年)
- 1930年(昭和5年)12月24日 台湾総督府専売局塩腦課長を命ぜられる。[20]
- 1931年(昭和6年)
1932年(昭和7年)7月29日 台湾総督府専売局塩腦課長を命ぜられる。[25]
- 1933年(昭和8年)10月3日 台湾総督府交通局参事、経理課長を命ぜられる。[23][26][27]
- 1935年(昭和10年)10月5日 台湾総督府交通局鉄道部庶務課長兼務を命ぜられる。[28]
- 1938年(昭和13年)
- 1939年(昭和14年)
- 1940年(昭和15年)
- 1949年(昭和24年)
- 1953年(昭和28年)6月20日 高砂香料工業株式会社取締役会長に就任する。[36]
- 1961年(昭和36年)5月31日 高砂香料工業株式会社の会長を退任し、取締役となる。[36]
- 1976年(昭和51年)2月12日 死去する。この時点でも清算が終了していない外地に本店を持つ会社が約20社あり、特殊整理人の引き継ぎが行われている。
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栄典
叙位
- 従七位 1923年(大正12年)11月10日[37]
- 正七位 1924年(大正13年)9月15日[38]
- 従六位 1926年(大正15年)12月1日[39]
- 正六位 1929年(昭和4年)5月2日[40]
- 従五位 1932年(昭和7年)2月1日[41]
- 正五位 1937年(昭和12年)2月15日[42]
- 従四位 1940年(昭和15年)8月6日[43]
勲等
脚注
関連項目
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