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源頼賢

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源 頼賢(みなもと の よりかた)は、平安時代後期の武将河内源氏源為義の四男。母は源基実の娘。あるいは文徳源氏源資遠資道)の娘とも。同母弟に源頼仲源為宗がいる。左衛門尉

概要 凡例源頼賢, 時代 ...

略歴

次兄・義賢と仲が良く、父子の盟約を交わしたと言われる。河内源氏嫡流は為義の後に義賢となっていたが、義賢は頼賢を嫡男として扱った。

久寿2年(1155年)、義賢が甥・義平に討ち取られると、その復仇を果たすべく信濃国に下向、鳥羽法皇領を侵犯する(『台記』)。これを知った法皇は、義平の父で頼賢の長兄にあたる義朝に対して、頼賢追討の院宣を下す。これにより、河内源氏一族内に緊張が高まったが、直前で義朝は頼賢追討を回避、頼賢もほどなく帰京した。

保元の乱では為義に従い、崇徳上皇藤原頼長方として活躍。義朝軍を相手に奮闘する様が『保元物語』に活写されている。崇徳上皇方の敗北に伴い、乱の後捕らえられ、義朝の手によって船岡山京都市北区)において斬首された。

子の淡路冠者源義久は、1183年に従兄弟の源義嗣と共に淡路国平教経と戦うが、義久は捕虜となった(六ヶ度合戦)[1]

脚注

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