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滝川一忠
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滝川 一忠(たきがわ かずただ)は、安土桃山時代の武将。通称は三九郎。滝川一益の長男[1][注釈 1]。
経歴
要約
視点
滝川一益の嫡子であったとされる[3][4][5][注釈 2]。
天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐で戦功を挙げた一益が上野国を与えられた頃には父と行動をともにしていた[注釈 3]。『石川忠総留書』には同年5月上旬に一益が厩橋城に上野の国人を集めて能興行を催し自ら「玉鬘」を舞った際に、嫡子「於長」が小鼓を打ったと記載されており、同じく幼名の「於八」と記載される15歳の弟一時と変わらぬ若年であった[8][9]。江戸時代の軍記物語『関八州古戦録』によれば、同年6月、本能寺の変で信長が横死した混乱に乗じて後北条氏が上野国に侵攻してくると(神流川の戦い)、一忠は厩橋城の留守に残り、もし一益が戦死した場合には命を全うして帰国し弔合戦に加わるように命じられたという[3]。
本領の北伊勢5郡に帰った一益が、天正11年(1583年)に織田信孝・柴田勝家に味方して織田信雄・羽柴秀吉に対して挙兵した際、一益は秀吉方の関盛信から奪取した亀山城に重臣の佐治新介(滝川益氏)を配置したが[10]、一忠が新介とともに亀山城に入ったとする地誌もある[11]。亀山城は秀吉方の攻撃により落城し[10]、一益も賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れたことで孤立して降伏し、失領した[12]。
天正12年(1584年)、秀吉と信雄・徳川家康の関係が決裂して小牧・長久手の戦いの戦いが起こると、滝川父子は秀吉方について伊勢に侵攻し、3月に秀吉方が奪取した神戸城に入城した[13]。6月16日、一益が信雄方の尾張国蟹江城を調略すると、一忠も父とともに同城に入った(蟹江城合戦)[14]。蟹江城の陥落を察知した信雄・家康が同城に攻め寄せると、一忠は蟹江城に収容される味方の殿軍となっているところを家康方の水野勝成に横合いから攻撃され、辛うじて城内に逃げ込んでいる[15][16][注釈 4]。7月3日、滝川父子は信雄・家康に降伏して蟹江城を明け渡し、伊勢に退いた[18]。
蟹江城落城の顛末に秀吉は怒り、吉田兼見は7月17日に秀吉は一益を逼塞、一忠を追放とし、その弟の一時のみを許すそうだという伝聞を『兼見卿記』に記している[19]。『寛永諸家系図伝』に引用された7月12日付けの滝川一時あて判物でも、一忠は所領の分配を受けていない[2]。『寛政重修諸家譜』では一忠は終身処士(浪人)であったと記されており[1]、秀吉の怒りによって追放されて浪人となったと理解されている[12]。
没年は『寛政重修諸家譜』およびその編纂に当たって滝川家から江戸幕府に提出された家譜のいずれでも明らかではない[1][20]。『当代記』は蟹江城合戦の年(天正12年(1584年))の暮れに滝川父子はともに病死したといい[21]、末弟の辰政が岡山藩に提出した身上書では、一益の没落後に身を寄せていた丹羽長秀が天正13年(1585年)に没した後、「織田上野様(織田信包)へ兄三九郎居申果候跡」に移ったと記されており[22]、一忠は蟹江城合戦のしばらく後に没したようである。
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脚注
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