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滝川宗次
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滝川 宗次(たきがわ むねつぐ)は、江戸時代前期の岡山藩士。通称は権之助、壱岐、丹波、縫殿[3]。
生涯
慶長11年(1606年)、姫路藩主池田輝政の家臣で2000石(のち3000石)を知行する滝川辰政の嫡男として播磨国姫路で生まれた[2]。
寛永18年(1641年)、岡山藩主池田光政から父辰政と別に500石を与えられ、高齢の父の名代を務めるようになった[7]。
慶安元年(1648年)、父の隠居により家督を継ぎ、家禄3000石を相違なく与えられて組足軽30人を預かった。このとき、宗次が知行していた500石は末弟の求馬に与えられて別家を起こした[4]。
寛文2年(1662年)、嫡男の一宗が光政の娘六姫の再婚相手に選ばれるが[8]、延宝2年(1674年)、父に先立って死去した(狂気して自害したと伝わる)[9]。
脚注
参考文献
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