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潘毓桂

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潘毓桂
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潘 毓桂(はん いくけい)は、中華民国の政治家。はじめは直隷派陳光遠に属し、後に宋哲元の側近をつとめた。さらに中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人となっている。燕生。なお、山口淑子(李香蘭)を義理の娘としている。

概要 潘毓桂, プロフィール ...

事績

要約
視点

清末に挙人となる。日本に留学し、早稲田大学を卒業している。帰国後は民政部五品警官首席秘書、内外城警庁検事、国務院法制局参事、江蘇省督軍署政学参議を歴任する。1917年(民国6年)、直隷派江西督軍陳光遠の配下となる。督軍公署秘書長、同軍法処処長、景徳鎮統税局局長を歴任した。

1923年民国12年)からは、蒙蔵院副総裁、国務院参議、津浦鉄路局副局長などに就いている。1935年(民国24年)、宋哲元が平津衛戍司令に任命されると、潘毓桂はその高等顧問となる。同年12月に国民政府行政院が冀察政務委員会を設立すると、政務処処長兼交通委員会委員となった。

1937年(民国26年)7月、潘毓桂は北平治安維持会常務委員、北平警察局局長に任命された。中華民国臨時政府成立後の1938年(民国27年)1月5日、河北省長に転じた高凌霨の後任として、潘は天津特別市市長に特任される[1]。同年4月27日に臨時政府委員(議政委員会委員。特任官)[2]、6月6日に天津特別市工務局局長を[3]、それぞれ兼任した。

潘毓桂が天津特別市市長に抜擢された理由は、北平での「抗日反満分子」を鎮圧する「法官出身の凄腕」、「辣腕と迫力」を買われてのこととされる[4]。ところが潘は天津市の地元人士からの声望に乏しく、日本軍の天津特務機関からも意中の人物とされていなかった。そのため、次第に日本側の信任を得て台頭してきた津海関監督・温世珍に潘は市長の地位を脅かされるようになり、これと政争を繰り広げている。翌1939年(民国28年)になると、天津特務機関長・柴山兼四郎(大佐)から辞職勧告を受けるまでに至ったとされる[5]

様々な圧力に屈した潘毓桂は、同年3月24日、ついに天津特別市市長事務の代行を臨時政府行政委員会に要請、温世珍が市長代行となる[6]。4月25日、潘は病気を理由として市長を辞職[7][注 1]、温が後任の市長に正式任命された[8]。市長辞職後も、兼任していた市公署工務局局長には何故か留まっていたが、これも5月19日に辞職し[9]、臨時政府委員専任となっている。その後、潘は日本を一時訪問した。

1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。同日、臨時政府委員の地位をそのまま引き継ぐかのように、潘毓桂は華北政務委員会委員に特派された[10][注 2]。なお、現職市長・温世珍の華北政務委員会委員兼任は何故か半年近く遅れ、9月12日にようやく発令された。しかし、潘が華北政務委員会で復権を果たすことは無かった。翌1943年(民国32年)11月11日、華北政務委員会が改組された際に潘は委員を罷免された[11][注 3]

日本敗北後、潘毓桂は漢奸として逮捕、収監された。中華人民共和国成立後の1961年11月12日、上海の獄中で死去した。享年78。

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注釈

  1. 徐主編(2007)は汪兆銘政権成立後に天津特別市長を兼任、劉ほか主編(1995)は天津特別市長を1940年3月辞任、としているが、いずれも誤り。
  2. 華北政務委員会の人事自体は、発令前の同月22日における中央政治会議で議決されている(『外交時報』94巻2号通号849号、昭和15年4月15日、外交時報社、182-185頁)。
  3. この改組に伴う華北政務委員会委員や総署幹部の罷免については、公報上に記載されていない。

参考文献

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