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瀬名義利
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瀬名 義利(せな よしとし、1853年1月6日(嘉永5年11月27日) - 1922年(大正11年)4月12日)は、幕末の武士、明治時代の陸軍軍人。
生涯
250俵の旗本瀬名貞明 (通称孫之丞、号は宗入)の次男として生まれる。瀬名氏は今川氏の分流で、今川家の没落以来徳川家に臣従した。維新後は他の幕臣と共に静岡県庵原郡西奈村に移住した。1869年9月、幕府陸軍の大砲差図役として同役であった岡部長民(長崎奉行岡部長常の子)・林正功とともに沼津兵学校の第四期資業生(全五十九名)として入学[1]。
卒業後は陸軍に入り、1874年、陸軍少尉に任じられ、西南戦争に従軍。その功により勲六等を叙せられ、年金70円を賜る。日清戦争では砲兵陸軍中佐となり、野戦砲兵第十一聯隊長として出征した。その功により勲三等を叙せられた。1898年10月1日、門司陸軍兵器本廠長となる。1905年には陸軍少将となる。日露戦争では碇泊場司令官および後備第二師団兵站監として出征。その功により功四級金鵄勲章を授けられる。1907年、予備役となり、靖國神社宝物館・遊就館の館長に就任した[2]。1922年4月12日卒去[3]。戒名は寛洪院殿義山日達居士。墓所は喜久井町の日蓮宗本松寺にある。
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家族
脚注
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