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版元

印刷物の出版元・発行元 ウィキペディアから

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版元(はんもと)とは、江戸時代において、出版物の企画、制作、販売を一手に担った業者を指す語である[1]。現代の出版社取次会社小売書店三者の機能を兼ね備えた存在であり、木版印刷の版木(板木)の所有者であることから、板元とも表記された[2]

概説

江戸時代には版木の製作から印刷、販売までが一貫して行われており、版木を所有していた書物問屋地本問屋などを指して、『板元(はんもと)』」と呼んでいた。

江戸時代の出版文化は、主として京都大坂(後の大阪)、江戸の三都を中心に発展し、各都市の版元がそれぞれの地域的特色を持つ出版活動を展開した[3]

種類

堅い内容の書籍を扱う書物問屋しょもつどんやと、娯楽性の高い草双紙や浮世絵を扱う地本問屋じほんどんやの二系統に大別されることが多い。ただし、実際には両者を兼業する版元も存在した[4]。書物問屋は株仲間の結成を公認され、特権的な営業独占権を有していたのに対し、地本問屋には株仲間は認められていなかった[5]

歴史

要約
視点

文禄・慶長年間の京都の出版活動

日本の近世の商業出版は、豊臣秀吉の文禄・慶長年間(1592年 - 1615年)に京都で興隆した[6]。それ以前の出版活動は、主に寺院による寺社版や、公家や武家による古活字版に依拠していたが、慶長14年(1609年)に本屋新七が商業出版を創始したことが確認される最古の事例である[7]。初期の京都の版元は、儒医書、仏教書、古典文学、歌書など、学術的な性格の強い出版物を中心に扱っていた[8]

寛永年間(1624年 - 1644年)頃には、整版印刷(木版を彫り、それを繰り返し使用する印刷方式)への移行が進み、大量印刷が可能になったことで、出版業は本格的に分化・発展した[9]。元禄年間(1688年 - 1704年)には、書林十哲と呼ばれる10の有力版元が京都出版界の中心を担い、特に吉野屋権兵衛よしのやごんべえなどは、俳書や浮世草子など、庶民向けの娯楽書も手掛けるようになった[10]

大阪の出版業

大坂の出版業は、京都にやや遅れて発展したが、享保年間(1716年 - 1736年)頃には最盛期を迎えた[11]。大坂の版元は、経済都市という土地柄を反映し、実用書、重宝記(じゅうほうき:生活雑事の便覧)、そして浮世草子といった庶民の生活に密着した出版物で人気を博した[12]

大坂の代表的な版元としては、井原西鶴の『好色一代男』(天和2年・1682年刊)を刊行した八文字屋八左衛門(はちもんじややざえもん)が特に著名である[13]。八文字屋は、西鶴以降も江島其磧(えじまきせき)らの作品を多数出版し、享保期には浮世草子の出版をほぼ独占する地位を築いた[14]。また、河内屋太助(かわちやたすけ)は、兵法書などの武経書や、実用的な指南書を多く出版したことで知られている[15]

江戸の地本問屋の勃興と多様化

江戸の出版は、当初は上方かみがた(京都・大坂)からの出店や委託販売に依存していたが、元禄年間以降、急速に地元の版元が台頭した[16]。特に、江戸で独自の発展を遂げたのが、草双紙(くさぞうし:絵入りの通俗小説)や浮世絵版画を専門とする地本問屋である[17]。江戸の出版点数は、18世紀後半には上方を凌駕するに至り、文化的中心地としての地位を確立した[18]

江戸の書物問屋

江戸の書物問屋の筆頭は、享保年間から幕末まで続いた大問屋、須原屋茂兵衛(すはらやもへえ)である[19]。須原屋は、創業時は薬屋を兼業していたが、後に『武鑑』(ぶかん:幕府の職員録・大名名鑑)や江戸絵図といった権威的な出版物を独占的に刊行した[20]。また、須原屋市兵衛は、茂兵衛から暖簾分けした版元であり、杉田玄白の『解体新書』(安永3年・1774年刊)という日本最初の本格的な西洋解剖学書の翻訳書を出版したことで知られている[21]

江戸の地本問屋

江戸の地本問屋で最も著名なのが、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう:通称「蔦重つたじゅう」)が営んだ耕書堂である[22]。蔦重は、吉原細見(よしわらさいけん:遊廓のガイドブック)の発行で成功を収めた後、田沼意次の時代に頭角を現した[23]喜多川歌麿東洲斎写楽山東京伝大田南畝(蜀山人)といった一流の絵師や戯作者をプロデュースし、狂歌本黄表紙(きびょうし)、洒落本(しゃれぼん)、錦絵(にしきえ)など、多岐にわたるジャンルで革新的な出版を行った[24]

蔦重のライバルとしては、宝暦年間(1751年 - 1764年)から続く老舗の西村屋与八(にしむらやよはち:堂号は永寿堂)がある[25]。西村屋は、3代目が歌川広重の『東海道五十三次』(天保3年 - 5年・1832年 - 1834年頃)や葛飾北斎の『富嶽三十六景』(天保2年 - 6年・1831年 - 1835年頃)といった大判錦絵の風景画シリーズを出版し、大ブームを巻き起こした敏腕版元である[26]

また、鶴屋喜右衛門(つるやきえもん:堂号は仙鶴堂)は、柳亭種彦のベストセラー合巻『偐紫田舎源氏』(にせむらさきいなかげんじ:文政12年 - 天保13年・1829年 - 1842年)を刊行し、一時代を築いたが、天保13年(1842年)の天保の改革による弾圧で絶版処分となり、衰退した[27]

尾張の出版活動

尾張(現・愛知県)の出版文化も、京都や大坂に次ぐ重要な位置を占めていた[28]。代表的な版元は、永楽屋東四郎(えいらくやとうしろう:片野東四郎とも)である[29]

永楽屋東四郎は、主に地方向けの書籍や、名古屋で盛んだった狂歌や俳諧の出版を担っていた[30]。寛政5年(1793年)に刊行された中国の道教説話集『列仙伝』の初版本は、永楽屋東四郎が出版したものであり、江戸の蔦屋重三郎と提携して、江戸での販売も行った記録が残っている[31]。また、永楽屋は、幕末の文久3年(1863年)に、歌川広重の『東海道五十三次』の続編として企画された『木曽街道六十九次』の一部を、江戸の版元である錦樹堂や山本屋平吉(栄久堂)と共同で出版したことが確認されており、三都以外の版元が主要なプロジェクトに参加していた具体的な事例である[32]

その他の地方出版の状況

三都以外の地方都市でも、寺院の門前町や商業の中心地において、地域に根差した出版活動を行う版元が存在した。例えば、金沢では加賀藩の学問振興策のもと、地元の版元が藩士向けの教科書や儒学書を出版していた[33]。また、仙台福岡などの城下町でも、地元の需要に応じた書籍が出版され、特に藩校向けの漢籍や地方の地誌などが主な出版物であった[34]。しかし、これらの地方出版の規模は三都に比べてはるかに小さく、具体的な出版点数や版元の固有名詞が詳細に記録されている事例は、三都のそれに比して少数である[35]

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版元の役割と業界の構造

版元は、現代の出版社以上に多岐にわたる役割を担っていた[36]

企画・編集(プロデュース)

著作者(戯作者絵師学者など)と交渉し、出版物のテーマや内容を決定する[37]。特に地本問屋は、蔦屋重三郎のように、人気作家の発掘とプロモーションに力を注いだプロデューサーとしての役割が大きかった[38]

制作管理

浮世絵や絵入りの草双紙では、絵師が下絵を描き、彫師が版木に彫刻し、摺師が和紙にインク(墨、顔料)を摺り付けるという高度な分業体制が敷かれていた[39]。版元は、これらの職人を統括し、品質と納期を管理するディレクションを行った[40]

流通・販売

制作された出版物を自店で小売するほか、地方の書物問屋や行商人への卸売(取次)も行った[41]。また、版元間の合本(がっぽん)という共同出版の制度があり、高額な出版物のリスクを分散するとともに、販売網を広げる具体的な手段として機能した[42]

版権の所有

最も重要な役割は、出版物の原版である版木を所有し、その出版権(版権)を保持することであった[43]。版木は版元の財産であり、版木が破損したり摩耗したりしない限り、永続的に再版が可能であったため、安定した収益源となった[44]


統計、出版点数

江戸時代の全期間における正確な出版点数の総計を出すことは困難であるが、特定の版元や時期については、具体的な数字が研究で示されている[45]

江戸 vs 上方

17世紀末の元禄年間においては、京・大坂の出版点数が江戸を上回っていたが、18世紀中頃には江戸が上方を凌駕するに至った[46]。例えば、享保年間(1716年 - 1736年)における大坂の出版点数は、年平均で約40点であったのに対し、幕末の弘化・嘉永年間(1844年 - 1854年)における江戸の地本問屋による新作出版点数は、年平均で100点を超えていたと推計されている [47]

蔦屋重三郎の活動点数

蔦屋重三郎は、天明年間(1781年 - 1789年)のわずか9年間で、黄表紙、洒落本、狂歌絵本、錦絵などを合わせて、約250点以上の新作を企画・刊行した記録が残されており、その活動量の多さが具体的に示されている [48]。これは、当時の地本問屋としては突出した出版数である[49]


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版元と著作権

江戸時代の板木の売買

出版物の元となる板木の売買が行われていた[50]文書が残されていて[51][52]版権無体財産権として売買・抵当の対象になっていた事例として取り上げられている[51]

しかしながら、売れっ子作者を除いて著作者に報酬が支払われることはなかったさまが次のように述べられている。

草双紙の最も流行を極めしものは天明年間に売り出したる喜三二が『文武二道万石通』、春町が『鸚鵡返し文武の二道』、および参和が『天下一面鏡の梅鉢』の黄表紙にて、発兌の当日は版元鶴屋の門前に購客山の如く、引きも切らざりしかば製本の暇さへなく摺り上げしばかりの乾きもせざる本に表紙と綴系とを添へて売り渡せり。 草双紙が如何に流行せしかを見るに足るもの有らん。然るに書肆の作者に酬ゆることは極めて薄く、ただ年始歳暮に錦絵絵草 紙などを贈るに止まり、別に原稿料として作者に酬ゆることはなかりしなり。たまたま当たり作あるも、其の作者を上客となし画工彫刻師等を伴い遊里に聘してこれを饗応するにあらされば、絹一匹または縮緬一反を贈り以て其の労に酬ゆるに過ぎず、未熱の作者に至りては入銀とて二分ないし三分を草稿に添へて而して書肆な出版を請ふものあるに至れり。されば当時の作者は皆他に生計の道を立てて戯作は真の慰みものとなせしなり。
江戸時代戯曲小説通志、[53]


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出典

参考文献

関連項目

外部リンク

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