トップQs
タイムライン
チャット
視点

牛若丸原田

ウィキペディアから

Remove ads

牛若丸 原田(うしわかまる はらだ、1947年11月26日 - 2016年6月15日)は、日本の元プロボクサー。本名は原田 勝広(はらだ かつひろ)。東京都世田谷区出身。バンタム級フェザー級の2階級で日本タイトルを獲得した。

概要 基本情報, 本名 ...

元世界2階級王者のファイティング原田は実兄である。

経歴・人物

目尻をカットしやすい弱点があり、KO、TKO負けのほとんどは目尻をカットしたことによるものである。そのため後の世界王者等多くの強豪相手に好勝負を再三演じながらも、世界王座挑戦は遂に成らなかった。師匠の笹崎僙会長は、牛若丸原田のことを「タフさでは兄(ファイティング原田)以上」と評している。

引退後は兄弟のファイティング原田が会長を務めるジムでトレーナーを務めた後、1998年より千葉県館山市に居住し、館山牛若丸原田ボクシングジムの会長として指導に当たっていた。

2016年6月15日に死去[1]68歳没

主な戦績

要約
視点

プロボクサーであった実兄の原田政彦(後の世界王者ファイティング原田)の後を追って笹崎ボクシングジムに入門。

  • 1965年2月20日、プロデビュー戦で江森一夫(ボーリング)に3ラウンドTKO勝利。
  • 1965年12月20日、橋本久三(晴海)と6ラウンドを闘い引き分けになるも、規定により勝者扱いで東日本バンタム級新人王獲得。
  • 1966年1月31日、木村美男(神戸)に6回判定勝利で全日本バンタム級新人王獲得。
  • 1967年3月19日、日本バンタム級タイトルに挑戦。王者の斎藤勝男(タナカ)が計量に失格。2回KO勝利で剥奪されたタイトルを獲得。
  • 1967年9月14日、高木永伍アベ)に10ラウンド判定で敗れ日本バンタム級タイトルを失う。
  • 1967年10月14日、後の怪物世界王者で当時28勝27KO1分で売り出し中のルーベン・オリバレスメキシコ)とメキシコでノンタイトル戦。2回TKO負け。
  • 1968年1月4日、高木永伍(アベ)との再戦でまたしても10回判定で敗れ日本バンタム級タイトルの奪還に失敗。
  • 1968年10月24日、高木永伍(アベ)との再々戦で7回KO勝ちで日本バンタム級タイトル奪還。
  • 1969年1月2日、東京オリンピックバンタム級金メダリストで後の東洋王者桜井孝雄三迫)とのノンタイトル戦に10回判定で敗れる。
  • 1969年4月16日、後の世界王者チューチョ・カスティーヨメキシコ)とのノンタイトル戦で10回引き分け。カスティーヨが怪物王者ルーベン・オリバレスに14回KO勝ちし、世界王座に付くのはその1年半後である。
  • 1969年11月26日、内山真太郎(船橋)に10回判定で敗れ日本バンタム級タイトル失う。
  • 1970年3月12日、内山真太郎(船橋)との再戦に10回判定で敗れ日本バンタム級タイトル奪還に失敗。
  • 1970年6月9日、後の2階級世界王者となる洪秀煥:ホン・スーファン(韓国)とのノンタイトル戦に10回判定勝ちで初黒星を付ける。
  • 1971年9月22日、内山真太郎(船橋)との再々戦に10回引き分けで日本バンタム級タイトル奪還に失敗。
  • 1972年9月28日、後に日本フェザー級タイトル14度防衛の名王者となる根本重光=スパイダー根本(草加有沢)に10回判定負け。
  • 1972年11月9日、金炫韓国)の東洋フェザー級タイトルに挑戦。12回判定で敗れタイトル獲得ならず。
  • 1972年11月26日、東洋バンタム級王者となった後の2階級世界王者洪秀煥:ホン・スーファン(韓国)とノンタイトルで再戦。10回判定負けで返り討ちならず。
  • 1973年4月13日、日本フェザー級チャンピオン三政直横浜協栄)に挑戦。10回引き分けでタイトル獲得ならず。
  • 1973年7月31日、後の名世界王者ダニー・ロペス米国)とのノンタイトル戦に2回TKO負け。
  • 1974年1月4日、三政直(横浜協栄)への再挑戦で10回判定勝利。日本フェザー級タイトルを獲得し2階級制覇。
  • 1974年5月4日、王者、挑戦者の立場を変えて三政直(横浜協栄)と3度目の対戦。10回判定勝ちで日本フェザー級タイトル初防衛に成功。
  • 1974年8月25日、1階級下の現役日本ジュニアフェザー級王者江藤清一(熊谷)とのノンタイトル戦で10回引き分け。
  • 1974年11月24日、タイトルを懸けて江藤清一(熊谷)と再戦。またしても10回引き分けで日本フェザー級タイトル2度目の防衛に成功。
  • 1975年3月9日、フリッパー上原協栄)に10回判定で敗れ日本フェザー級タイトル失う。
  • 1975年6月29日、フリッパー上原(協栄)に挑戦。10回判定で敗れ日本フェザー級タイトル奪還に失敗。
  • 1975年12月21日、後の世界ジュニアフェザー級王者ロイヤル小林国際)とのノンタイトル戦に10回判定負けするものの、一時はボディ攻撃で守勢に立たせるなど大いに善戦する。
  • 1976年4月22日、足立茂義(本多)に10回判定負けしたのを最後に引退。
Remove ads

戦績

要約
視点

 70戦 36勝(14KO) 20敗 14分

さらに見る 戦, 日付 ...
Remove ads

タイトル

  • 1965年 第22回東日本バンタム級新人王
  • 1966年 第12回全日本バンタム級新人王
  • 1967年 第21代日本バンタム級王座
  • 1968年 第23代日本バンタム級王座
  • 1974年 第20代日本フェザー級王座(2度防衛)

脚注

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads