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物産学
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物産学(ぶっさんがく)は、江戸時代後期に本草学から派生した分野で、各地の有用な産物(農作物・動植物・鉱物・人工物)をあつかう学問[1]。博物学に近い。物産、産物之学などともいう[2][3]。

源内が開催した物産会の展示品を紹介した書物。
解説
白井光太郎によれば、西洋の「博物学」と重なる東洋の学問として「本草学」「名物学」「物産学」があった[4][5]。
本草学は、医薬の材料となる産物をあつかう学問である。江戸後期に本草学が発達すると、医薬に限らず有用な産物をあつかうようになり、物産学が形成された[6]。物産学の内容は、本草学の内容に、用途や産地、生産法(飼育栽培法)などの知識を合わせたものだった[3]。物産学は本草学だけでなく地誌学や商品学[7][4]、農学[8]、園芸学[9](古典園芸植物)などとも重なる。
物産学書の例として、貝原益軒『筑前国続風土記』所収『筑前土産考』をはじめ[10]、平賀源内『物類品隲』[11][12]、稲生若水と丹羽正伯『庶物類纂』[12]、小野蘭山『本草綱目啓蒙』[12][13]、曽占春『海内方物紀略』[10]、源伴存(畔田翠山)『和州吉野郡群山記』、木村蒹葭堂『日本山海名産図会』[14]、平瀬徹斎『日本山海名物図会』[14]、大原東野『五畿内産物図会』[14]、ほか各地の「産物志」[15][16]や採薬記がある[15]。
田村藍水(源内の師)ら江戸の本草学者の学風が物産学的・実学的だったのに対し、稲生若水ら京都(上方)の本草学者は名物学的・文献学的だった、とも言われる[17]。
物産学の興隆は、徳川吉宗の「享保の改革」における殖産興業政策と関わる[7][18]。吉宗は上記の『庶物類纂』編纂を支援したほか、諸国産物調査、朝鮮人参やサトウキビなど舶来品の国産化、救荒食物のサツマイモの生産、小石川植物園の運営、植村政勝・阿部将翁ら採薬使の活動、なども支援した[7][19][20][12][21]。当時の商品経済の発達も物産学の背景にあった[14]。
「物産学」「産物之学」といった呼称が現れるのは江戸後期以降である[22]。ただし、物産学にあたる営為は古くからあり、『周礼』や地誌一般における産物の記述や[23][8]、中国現存最古の植物誌『南方草木状』などがある[8]。
幕末から明治初期には、蕃書調所や大学南校に「物産所」や「物産局」が置かれ、伊藤圭介や田中芳男が所属した[24]。田中芳男門下の河原田盛美が琉球処分に際して著した『沖縄物産志』も、本草学・物産学の影響下に書かれた[25]。文部省博物局は大学南校物産局を前身として、湯島聖堂博覧会などの博覧会・博物館事業を担当した[26]。
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関連項目
脚注
参考文献
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