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畝状竪堀
戦国時代に築かれた城の防御設備 ウィキペディアから
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畝状竪堀(うねじょうたてぼり)とは、戦国時代に築かれた城の防御設備。1959年に田中寅吉が初めて報告した[1]。 千田嘉博は1989年に畝状空堀群の呼称を選択し、横堀との組み合わせや、堀と土塁の屈曲などをもとに考古学的に分類し、分布とともに全国的な成立過程を検討した[2] 様々な呼び名があり[注 1]、畝形竪堀[4]、連続空堀群、連続竪堀群、畝状空堀群、畝状竪堀群、多重防御遺構、畝状阻塞、畝状阻障、特異施設など、複数の呼び名がある。この記事では、便宜的に畝状竪堀を使用する。
![]() | このページ名「畝状竪堀」は暫定的なものです。(2018年1月) |


構造と目的
畝状竪堀の構造は、土塁と竪堀(空堀)が交互に隣り合っている。 空堀と空堀の間には土塁があり、土塁と土塁の間には空堀がある[5][6]。
畝状竪堀の目的は、少人数で城を守れるようにするため。 土塁と竪堀を連続的に組み合わせると、寄せ手の進入路を堀底道だけに制限して曲輪の周りをキルゾーンにする効果がある。[要出典]
畝状竪堀は、係争地域の境目の城で、敵の進撃路に面する側に築かれることが多い。[要出典]
呼称
斜面上に築かれると連続竪堀と呼ばれ、尾根・台地上に築かれると、連続堀切・連続空堀と呼ばれる[5]。江戸時代以前には、次の名称があった[7]。
現在でも、次の呼称が残っている[7]。
分布
九州北部

国人領主の秋月氏が畝状竪堀を積極的に建設したので、九州北部(筑前国中東部・豊前国西部・筑後国北部)は、畝状竪堀がある城が密集する[8]。なかでも長野城(豊前国)・馬ヶ岳城・益富城・荒平城・蔦ヶ岳城は、畝状竪堀の堀数が100本を超えている。
秋月氏の本拠地である古処山城・荒平城・益富城や、秋月氏の同盟勢力である一万田系高橋氏・豊前長野氏・星野氏・城井氏と敵対する勢力との境目地域には、畝状竪堀の堀数が多い城がある。
他の地域
東国においては、日本海側、特に新潟県・山形県・秋田県・長野県などの地域で畝状竪堀をもつ城が多い[6]。一方、東海地方・関東地方・東北地方の太平洋側・北海道地方には少ない[5][6]。また、織豊系城郭・アイヌのチャシは、畝状竪堀を積極的に築いていない。
各旧国内の城の総数に対する、畝状竪堀がある城の比率は、次表のとおりである。
脚注
関連項目
外部リンク
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