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白堅武

中華民国の政治家・軍人 ウィキペディアから

白堅武
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白 堅武(はく けんぶ)は、中華民国の政治家・軍人。馨遠。別号は馨亜興亜

概要 白堅武, プロフィール ...

事跡

末は、県考、府考、院考のいずれでも案首(首席合格者)となっている。1910年宣統2年)、天津法政学堂に入学し、このときに中国同盟会に加入した。翌年9月、広西提督陸栄廷の顧問となった。

1918年民国7年)、直隷省代表として上海の南北和平会議に参加した。その後、南京に向かい、直隷派江蘇都督李純の顧問となった。翌年、李が自殺すると、白堅武は同じ直隷派の呉佩孚配下に転じている。

1921年(民国10年)、呉佩孚が両湖巡閲使兼直魯豫巡閲副使に就任すると、白堅武はその政務処処長に任ぜられた。1924年(民国13年)、第2次奉直戦争で呉が敗北すると、白は天津に逃れた。その翌年に呉が再起して十四省討賊聯軍総司令を称すると、白は再びその政務処処長となっている。しかし、1927年(民国16年)に呉が国民革命軍に最終的に敗北すると、白は日本に亡命した。

日本での白堅武は、呉佩孚の復権を目指して有力者に接触したが、成果はあがらず天津に戻った。以後、白は呉を首班とする「華北国」の樹立に向けて奔走することになる。1931年(民国20年)6月、土肥原賢二らの助力の下で、白は天津で暴動を引き起こそうとしたが、失敗に終わった。1933年(民国22年)、かねてから親交のあった河北省政府主席于学忠に「華北国」樹立を薦めたが拒否され、後にその暗殺を謀ったがやはり失敗に終わる。その後、満州国に赴き、実業総長張燕卿の支援を獲得した。

1935年(民国24年)、白堅武は天津に戻る。同年6月28日、やはり土肥原らの支援を受け、白は自ら総司令として石友三と「華北正義自治軍」を組織し、「華北国」の樹立を図った(豊台事変、豊台暴動)。しかし、商震軍および万福麟軍に鎮圧されてまたしても失敗に終わり、満州へ逃亡の後に再び天津に戻っている。同年11月、宋哲元冀察政務委員会委員長に就任すると、白は同委員会参議に任ぜられた。日中戦争(抗日戦争)が勃発して天津が陥落した後、白は河北省大名県に撤退した宋の下を訪れている。

しかし同年末に宋哲元が病により軍を離れると、翌1938年(民国27年)、白堅武は馮玉祥[1]に捕縛されてしまう。白は「通敵叛国」の罪により、河南省南楽県で銃殺刑に処せられた。享年59。

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参考文献

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