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皆川淇園

江戸時代中期の儒学者 ウィキペディアから

皆川淇園
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皆川 淇園(みながわ きえん、享保19年12月8日1735年1月1日〉 - 文化4年5月16日1807年6月21日〉)は、江戸時代中期の儒学者。父は皆川成慶(春洞、白洲)で、実弟に国学者富士谷成章(層城、北辺)、甥に国学者富士谷御杖がいる[1]。淇園は号で、名は愿(げん)、字は伯恭(はくきょう)、通称は文蔵(ぶんぞう)、別号に有斐斎(ゆうひさい)がある[2]。生まれは京都

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皆川淇園肖像 『近世名家肖像』

生涯

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皆川淇園書

皆川春洞の第二子、長男として京都正親町坊(中立売室町西)に生まれる。9人兄弟であった。4、5歳頃には杜甫の詩を覚えていたといわれる[3]

伊藤錦里三宅元献などに儒学を学んだ。易学について研究を深め、独自の言語論により「」と「物」との関係を解釈する開物論を唱え、「老子」「荘子」「列子」「論語」など多くの経書に対する注釈書を著した。亀山藩松平信岑)・平戸藩松浦清)・膳所藩本多康完)などの藩主に賓師として招かれた。

宝暦9年(1759年)より京都・中立売室町西にて門人を受け入れ始めた[4][5]。また、江村綬の錫杖堂詩社に影響され、柴野栗山赤松滄洲らと三白社という詩社を起こす。

絵画の腕も卓越しており、山水画では、師の円山応挙に劣らずという評価も受けている。

晩年の文化2年(1805年)には様々な藩主の援助を受けて京都に学問所「弘道館」を開いた。 志半ばにして、翌年、74歳で没する。

門人は3,000人に及んだといわれる。門弟として富士谷成章(実弟)・巖垣龍渓稲毛屋山小浜清渚東条一堂北条霞亭田中履堂などがいる。

京極阿弥陀寺に葬られた[6]。墓誌は松浦清が文を製し、その書は本多康完が記した。東京国立博物館には「明経先生像」と題された淇園の遺像が残る(渡辺南岳筆、東京国立博物館 情報アーカイブ)。

大正4年(1915年)、従四位を追贈された[7]

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主な著書

脚注

参考文献

外部リンク

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