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円山応挙

日本の画家 ウィキペディアから

円山応挙
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円山 応挙(まるやま おうきょ、旧字体圓山 應擧享保18年5月1日1733年6月12日)- 寛政7年7月17日1795年8月31日))は、江戸時代中期~後期の絵師

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円山応挙肖像『近世名家肖像』より
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金刀比羅宮表書院障壁画のうち瀑布図
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金刀比羅宮表書院障壁画のうち竹林七賢図

近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した画風が特色である。

諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている[1]

経歴

要約
視点

本姓は藤原、後に、姓は円山、名は岩次郎、後に主水。夏雲、雪汀、一嘯、仙嶺、僊斎、星聚館、鴨水漁史、攘雲、洛陽仙人と号す。石田幽汀の門人。享保18年(1733年)、丹波国桑田郡穴太(あなお)村(現在の京都府亀岡市曽我部町穴太)に農家の次男として生まれた。穴太は、西国三十三所の札所寺院である穴太寺があることで知られる。少年時代のことはあまり詳しくわかっていないが、遅くとも10代の後半には京へ出て、狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家、石田幽汀の門に入っている。

20代の修行期の頃にはいわゆる「眼鏡絵」の制作に携わっていたことが知られる。この頃、京都四条通柳馬場の尾張屋中島勘兵衛という玩具商に勤めていた。そこでオランダ渡来の眼鏡絵を見て、宝暦9年(1759年)頃、「四条河原遊涼図」、「石山寺図」、「賀茂競馬図」、「円山座敷図」、「三十三間堂図」など京都風景の眼鏡絵を制作した。眼鏡絵とは、風景などを西洋画の遠近法を応用して描き、これを「覗き眼鏡」という凸レンズを嵌めた箱を通して見ると立体的に見えるというものである。応挙が見た眼鏡絵は、45度傾けた鏡に映した絵をレンズを通して眺める。そうすると、遠近が深く感じることが出来る。よって、この原画及び図上の文字は左右反対に描いてあった。作品は木版墨摺りで、手で着色したものであった。画面には小さな孔を開け、薄紙を張って裏から光を当てるという工夫が見られた。

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円山応挙像(大乗寺

明和3年(1766年)から「応挙」を名乗り始める。「応挙」の意は「銭舜挙(中国末 - 初の画家)に応ずる」ということであり、中国の大家に劣らぬ水準の絵を描こうとする意が込められていると思われる。またこの頃から三井寺円満院門主の祐常の知遇を得る。祐常は摂家公家)の二条家から門跡寺院に出家し、『萬誌』(ばんし)という日常雑事を記録した書物を残しており、その中に応挙の言動が詳細に書き留められており、同時代の貴重な記録となっている。

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円山応挙のパトロンの一人、妙法院門主の真仁法親王[2]

この祐常や豪商三井家、また妙法院門跡真仁法親王が応挙の主要な支援者(パトロン)であった。代表作の『七難七福図』、『牡丹孔雀図』などは第二次大戦後まで三井寺円満院に伝来したものであり、『雪松図』は三井家に伝来したものである。また、兵庫の大乗寺、郷里穴太の金剛寺の障壁画群も代表作に数えられる。応挙最晩年の作品に属する『見立江口の君図』や『四季遊戯図巻』などは、純然たる意味での肉筆浮世絵とは言えないまでも、浮世絵的雰囲気を持つ作品として、また上方風俗図として挙げることが出来る。

寛政7年、63歳にて死没[3]法名は円誉無之一居士。墓所は京都市右京区太秦悟真寺[3]。位牌型墓石の表面に「源応挙墓」と刻む[3]。悟真寺は昭和26年に四条大宮から墓ごと太秦に移転したもので、境内に円山家一族の墓が並ぶ[3]。円山派は長男の応瑞が継いだが、後述の弟子たちの方が有名である。

大本教祖の出口王仁三郎は応挙の家系から出ている[4]

宅址(四条通堺町東入ル南側)に石標が一本建てられている[5][6]。また、応挙の百回忌である1894年、京都市東山区に顕彰碑が建立された[7]


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藤花図(六曲一双の部分) 安永5年(1776年)根津美術館
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画風

応挙の画風上の特色として第一に挙げるべきことは、近世の日本の画家のなかでも際立って「写生」を重視したことである。前述の祐常著『萬誌』によれば、応挙は常に懐中に写生帖を忍ばせ、暇さえあればスケッチに余念がなかったようである。現存する『花鳥写生図巻』(千總蔵、重要文化財)や東京国立博物館蔵の『写生帖』などには動物、昆虫、植物などがさまざまな角度から客観的に描写されている。当時の京では本草学が盛んで、円満院門主祐常が博物図譜の編纂を目論んでいたらしく、応挙が多数の写生図に取り組んだこととの関連を指摘する声もある[8]。応挙画は、こうした写生の技術を基礎としつつも、日本絵画の伝統的な画題を扱い、装飾性豊かな画面を創造しているところが特色である。一例として根津美術館蔵の『藤花図』屏風を見ると、藤の幹や枝は輪郭線を用いず、付立て[9] の技法で大胆に描き出す一方で、藤の花房は写実的かつ繊細に描かれ、全体としては琳派を思わせるような装飾性豊かな大画面をつくり出すことに成功している。卓越した画技と平明で親しみやすい画風から、応挙画は三井家をはじめとする富裕な町人層に好まれた。

大乗寺の襖絵では奥の間の絵と手前の絵の背景となる金箔の銅の配合が異なり、色味を変えて遠近感を出そうとした、一種の空気遠近法をとっているのではないかとする説も出ている[10]

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『狗子図』安永7年(1778年)敦賀市立博物館

著名な弟子には呉春長沢芦雪森徹山源琦などがいる。応挙を祖とするこの一派は「円山・四条派[11]と称され、現代にまでその系譜を引く京都画壇の源流[12]となっている。

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『雪松図』(国宝)三井記念美術館
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後世の作品で応挙を取り上げたもの

応挙の絵は大衆に受け入れられたため、大衆娯楽で取り上げられることが多い。また池波正太郎鬼平犯科帳」では、盗賊の人相書きを四条円山派の絵師・石田竹仙に描かせており、写実的画風で幕府お抱えの狩野派に勝るとも劣らないと劇中で描写されている。

  • 落語「応挙の幽霊」- 応挙が描いた幽霊の美人画を元にした落語。応挙を左甚五郎のような神格化された名人として扱っており、「応挙の幽霊の絵は他の絵師とは違う。とても美人だ」「応挙の幽霊は掛け軸から出て来る。左甚五郎の彫った龍が夜な夜な水を飲みに行くのと同じだ」と描写されている[13]

応門十哲

応挙の門人のうち、最も優れた10人をいう。

代表作

さらに見る 作品名, 技法 ...
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作品画像

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秋冬山水図 1784年 クリーブランド美術館[38]

関連文献

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脚注

参考文献

関連項目

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