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石原繁三
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石原 繁三(いしはら しげぞう、1914年1月17日 - 1946年4月[1] )は、千葉県出身のプロ野球選手(投手)。 戦後東映フライヤーズで内野手として活躍した石原照夫は弟に当たる。
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来歴・人物
1930年に埼玉県の川越中学校から岩手県の遠野中学校へ転校。1932年に遠野中のエースとして東北大会を優勝し、第18回全国中等学校優勝野球大会へ出場した。卒業後に鉄道省へ入る。
1936年に東京セネタースへ入団。岩手県の学校卒業者として初のプロ野球選手となった[2]。この年の春季リーグで9試合に登板し4勝を記録。翌年に召集されるが、1940年に復帰。1941年は大洋軍へ移籍し、同年すぐに黒鷲軍へ移籍。1942年に20勝を記録した。
翌年に再び応召し、終戦後(1946年4月)に戦地から引き上げるが日本に着いた直後(別府港[1]とも下関港[3]とも伝わる)倒れ、3日後に病死した。
詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- セネタース(東京セネタース)は、1940年途中に翼(翼軍)に球団名を変更
- 黒鷲(黒鷲軍)は、1942年に大和(大和軍)に球団名を変更
背番号
- 9 (1936年、1940年、1941年 - 1942年)
- 22 (1941年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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