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福井盛太
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福井 盛太(ふくい もりた、1885年〈明治18年〉7月14日[1][2][3] - 1965年〈昭和40年〉12月27日[4][5][3][6])は、日本の弁護士(第一東京弁護士会会長)、検察官、政治家。検事総長、衆議院議員(3期)、日本弁護士連合会副会長[注釈 1]、共立薬科大学理事長等を歴任。また、日本野球機構初代コミッショナーを務めた。従三位、勲二等旭日重光章、館林市名誉市民。囲碁5段、柔道3段[1]。
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経歴
1885年(明治18年)、群馬県邑楽郡館林町(現在の館林市)に、旧館林藩士・福井盛武の長男として生まれる[8][2][6]。館林小学校尋常科・同高等科を経て[1][2]、1900年(明治33年)群馬県立太田中学校を卒業し旧制第二高等学校に進む[1]。1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業し[5]、翌年弁護士開業[1][2]。1923年(大正12年)丸ビル内に福井法律事務所を開き[1][2]、同年第一東京弁護士会の設立に参加[1][2]。
戦後の1946年(昭和21年)民間から選ばれて検事総長に就任[8][1][2][6]。昭和電工事件や炭鉱国管疑獄などの疑獄事件に関わった[8][6]。1951年(昭和26年)に日本野球機構初代コミッショナーに就任[1][2][6]。長谷川良平の広島カープ退団問題などに裁定を下した[6]。1952年(昭和27年)第一東京弁護士会会長[1][2]。翌1953年(昭和28年)共立薬科大学理事長[1]。日本大学講師も勤めた[1][2]。
1952年(昭和27年) 第25回衆議院議員総選挙に自由党公認で群馬県第2区から立候補し当選[1][2][6]。選挙事務長は六代正田文右衛門が務めた[6]。以後1度の落選を挟み当選3回[4][5]。憲法調査会長・裁判官訴追委員長・両院議員総会副会長を務めた[4][5]。1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退した[6]。
1964年(昭和39年)10月、館林市名誉市民に推挙[1][3][6]。11月に勲二等旭日重光章受章[1][2]。
1965年(昭和40年)12月27日、東京都港区の自宅で心臓喘息により死去[1][2]。同月従三位叙位[1]。法名は法徳院教岳盛太大居士、墓所は館林市の善長寺[1]。
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脚注
関連項目
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