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秋元征紘

日本の実業家 ウィキペディアから

秋元征紘
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秋元 征紘(あきもと ゆきひろ、1944年〈昭和19年〉 - )は、日本実業家作家。ワイ・エイ・パートナーズ(株)代表取締役、ジャイロ経営塾代表。株式会社ナイキジャパン元代表取締役社長。ゲラン株式会社元取締役会長・代表取締役社長。上智大学経済学部卒業、シドニー大学経済学部修士課程。神奈川県横浜市出身。

概要 あきもと ゆきひろ 秋元 征紘, 生誕 ...
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秋元征紘・イベント会場

著書に「金の社員・銀の社員・銅の社員」「こうして私は外資4社のトップになった」「『ジャイロ経営』が社員のやる気に火をつける?パッション・カンパニー」がある。

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概要

1944年昭和19年)神奈川県横浜市生まれ。上智大学経済学部を卒業、シドニー大学経済学部修士課程を修める[1]

1970年(昭和45年)日本精工(株)入社、2年後にニューヨークに3年駐在、トロントに5年駐在。トロントでは現地法人の販売会社のナンバー2になった。その後、日本ケンタッキーフライドチキン(株)(日本KFC)マーケティング本部長、日本ペプシ・コーラ副社長、日本KFC常務取締役、(株)ナイキジャパン代表取締役社長、LVMHグループのゲラン(株)代表取締役社長、取締役会長、ゲランSA(パリ本社)執行役員を歴任と、欧米企業日本法人のトップマネジメントを歴任する[1][2]

2006年平成18年)ワイ・エイ・パートナーズ(株)設立、代表取締役に就任[1]

2008年(平成20年)ジャイロ経営塾を設立。ベンチャー企業支援、戦略経営コンサルティング、大企業向けのグローバル人材研修およびマネジメント研修のプログラムデザイン・実施、数社の社外取締役・顧問等を務めるほか、執筆・講演等を精力的に展開[1]

子供地球基金の理事、六本木男声合唱団倶楽部の団員・幹事、裏千家茶道教室「茶美の会」の門下生など、広範囲な活動を行っている[1]

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現在の肩書き

社外取締役
  • レナ・ジャポン・インステイチュート株式会社[3]
  • 株式会社FiNC Technologies[4]
  • 株式会社ホワイトプラス[5] 
  • 株式会社イー・ロジット[6]
顧問・アドバイザー
  • CREWW株式会社[7]
  • 株式会社スパイスアップ・ジャパン[8]
  • 株式会社エアーウィーブ[8] 
  • 有限会社アッソインターナショナル[8]
  • 株式会社アクアバンク[8]
  • 株式会社タカハタ電子[8]
  • 株式会社ジェーシーコムサ[8]
  • 合同会社warabee [9]
その他の活動
  • 子供地球基金 理事[10]
  • 六本木男声合唱団倶楽部 団員・幹事[11]

経歴

人物

生い立ち
  • 主計将校だった父親は29歳でフィリピンで戦死。その体験から人より“achievement(達成、完遂)”しなくてはいけない、普通の人より努力しないと無理という意識が強かった[2]
学生時代
  • 上智大学に入学した1964年は東京オリンピックの年で、ドイツチームの選手達を、閉会式後の新宿御苑で開かれたパーティー会場までバスで案内する車中で、スポンサー企業からの労いのコメントを英語でスピーチアルバイトをした。同世代の外国人選手たちと交流を重ねるうちに「絶対、これからは世界だ」と直感的に感じた[15]
  • 1965年にオーストラリアへ交換学生をする。費用がなかった秋元は3ヶ月間で100社以上の会社を回り、寄付金を集めることに成功[15]
  • 上智大学卒業後、1968年2月から日豪経済委員会の奨学金でオーストラリアへ行き、シドニー大学の大学院で2年間勉強、経済学部で修士課程をとった[2]
倒産・失敗~ケンタッキーフライドチキン本部長時代
  • 過去に先輩が始めたベンチャー企業に参画したが、連帯保証で横浜の600坪の土地と家3軒を失い大失敗した。その後、ケンタッキーフライドチキン田園調布店でアルバイトを経て、ケンタッキーやペプシ・コーラでマネジメント体験を経た。その体験がナイキ・ジャパンの社長やゲランの社長に役立ったという[15][2]
  • 32歳のときに参画したベンチャー企業が倒産。たまたま大学時代のゼミの先輩の大河原毅が日本ケンタッキーフライドチキンの副社長していた。「お前そのままでは、飯が食えないだろ」と声をかけてもらい時給600円の田園調布店でアルバイトをはじめたという。1ヵ月、アルバイトを経て、副社長と社長の面接。英語が得意だった秋元は企画販売部長、マーケティング本部長と仕事を行い大きなチャンスを得た[15]
  • ケンタッキーフライドチキンでアルバイトから企画販売部長に昇進後に1年間で、焼き鳥の居酒屋チェーン「一番どり」(コンセプトからロゴ作成まで全て手掛ける)、百貨店でチェーン展開する「京鳥(みやこどり)」(日本で一番価格の高い焼き鳥のテイクアウトをコンセプト)を実現[2]
ペプシコーラ副社長時代
  • オーストラリアの留学生時代の先輩から「日本のペプシコーラの副社長をやらないか」と電話があり決断[2]
ナイキ社長時代
  • ナイキにはヘッドハンティングされる。実は2年前に別のシューズ会社から声がかかったが「スポーツシューズをやるんだったら、ナイキだな」と思って断わる。その記憶が即決につながった[2]
  • (株)ナイキジャパン 代表取締役社長に就任したとき「Just Do It」のフレーズを日本語コピーと併用しようと考えたが、アメリカから来た部下に猛反対される。その部下は創業者のフィル・ナイトに相談して、秋元は本社のあるオレゴン州まで呼び出されて「絶対に翻訳するな」と厳命され、「Just Do It」のフレーズ一本化を決めた[16][17]
LVMHグループ・ゲラン社長時代
  • 当時社長の話が6つ来ていた。LVMHの人事トップのマダム・ランショーとゲラン社長と東京で会う。殺し文句として「あなた、パリ好き?」って聞かれて「好きだ」と返事すると間髪なく、「あなたはもう50歳でしょう。50歳になったらね、こういうところがいいわよ。わたしもカーネギーメロン大学に行って、インテルに行った。でもアメリカ人と仕事するのって疲れるでしょう。あなたは日本人だからこういう文化はわかるでしょう」と説得されて決断した[2]
ジャイロ経営塾 創設
  • 溝口勇児(FiNC代表取締役社長CEO)はジャイロ経営塾の元塾生。24才頃に門を叩いて年上のメンバー相手に毎回違うテーマに沿って学び、ディベートするうちに面白さを覚えて起業したいと思った[18][19]
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著書

共著

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脚注

関連項目

外部リンク

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