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稲垣長剛
江戸時代の藩主 (1807-1847) ウィキペディアから
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稲垣 長剛(いながき ながかた[1][2])は、志摩鳥羽藩の第5代藩主[1][2]。鳥羽藩稲垣家9代。幼名は鶴三郎[1][2]。
生涯

文化4年(1807年)8月16日[2]/18日[1]、第4代藩主稲垣長続の四男として生まれる[1][2]。世嗣だった兄長興が廃嫡された後、文政元年(1818年)9月23日に長剛が世子となる[1]。12月29日に父が死去したため、文政2年(1819年)3月5日に家督を継いだ[1][2]。
しかし病弱であり若年でもあるため、隠居していた先々代藩主である祖父・長以が藩政を後見した[2]。
天保10年(1839年)に江戸屋敷が全焼して御用金を課すなどしている[1]。また、竹川竹斎や佐藤信淵を招いて『鳥羽領経緯記』をまとめさせるなど、悪化していた藩財政再建を目指したが、効果は無かった[1][2]。
天保13年(1842年)5月11日、家督を長男の長明に譲って隠居する[2]。弘化4年(1847年)2月14日に死去した[1][2]。享年41。
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系譜
父母
正室
側室
- アヤノ[1]
子女
出典
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