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積城郡
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積城郡(チョクソンぐん、せきじょうぐん、朝鮮語: 적성군)は、三国時代から朝鮮時代(李氏朝鮮)に、京畿道西北部、後の坡州市積城面と楊州市南面、漣川郡百鶴面、漣川郡全谷邑のカンパ里(간파리)、ヌルモク里(늘목리)一帯にあった、過去の行政区域の名称。近隣にあり、一時は百鶴面に編入されていた長南面は、本来は長湍郡に属しており、積城郡には関連がない。
由来
坡州市積城面(かつての積城郡東面(동면)、県内面(현내면)、西面(서면))を中心に、漣川郡百鶴面(かつての積城郡北面(북면)、南面などに位置していた。三国時代には百済、高句麗に属し、
七重という名は、近くを流れる臨津江の屈曲が激しいことから付けられたものと推定されており、古代には臨津江を「七重河」とも称していた。実際に地図を見れば、積城面周辺で臨津江が7回ほど屈曲していることが確認できる。
新羅による三国統一以後は新羅に編入され、景徳王の時に、
楊州市の南面は、本来は積城郡の南部にあったことから南面と呼ばれたが、楊州郡に編入された後も、この名称をそのまま使っている。
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歴史
- 本来は百済の領土土だったが、長寿王の時に高句麗の領土となり、その際に七重県となった。
- 629年(真平王51年)、金舒玄他2人によって新羅に編入され、善徳女王の時には当地に七重城が築城され、三国統一戦争の激戦地となった。
- 統一新羅時代である757年(景徳王16年)に、重城県と改称し、来蘇郡(後の楊州市)に属する県とされた。
- 高麗時代に現在の名称である積城に解明され、1018年(顕宗9年)に長湍郡の属県となった。
- 1106年(睿宗元年)には監務が中央政府から派遣された。
- 朝鮮時代に入り、1413年(太宗13年)には県監が置かれた。
- 1895年、二十三府制の実施により県が廃止されると、漢城府管轄の積城郡となり、(1896年に)十三道制の実施で京畿道に属することとなった。
- 1895年、北面が麻田郡に編入された。(後の漣川郡百鶴面)
解体後
1914年の行政区域[3]と現在の行政区域比較
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娘臂城
『新増東国輿地勝覧』は、現在の清州市にあった
脚注
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