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漣川郡
韓国・京畿道にある郡 ウィキペディアから
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漣川郡(ヨンチョンぐん)は、大韓民国京畿道の北部にある郡である。郡の西部から北西部にかけて軍事境界線が通っている。
地理
楸哥嶺地溝帯に位置し、郡内に臨津江が流れる。一帯に原生林が多く、川沿いに湿地も多い。川にヤガタニゴイ、チョウセンボテ、サメガシラ、コウライカワムツ、ヤガタムギツク、チョウセントゲタナゴなどの魚類が生息し、湿地付近にはキバノロ、カワウソ、ベンガルヤマネコ、ミズグモ、ヒシクイ、マガン、ワシ(イヌワシ)などの野生動物が生息している。2019年、漣川郡の郡域は臨津江流域と共にユネスコの生物圏保護区に指定された[2]。
歴史
- 百済 - 建国初期、北部変更地域にて靺鞨との軍事的衝突が起きた。
- 広開土王〜長寿王時代 - 高句麗領となり、この時から工木達県となった。
- 553年(真興王14年) - 新羅に編入された。
- 757年(南北国時代新羅景徳王16年) - 行政体制改編で功城県に改名され、鐵城郡(鉄原)の属県となった。
- 940年(高麗太祖23年) - 州に昇格して獐州に改名した。
- 1018年(高麗文宗23年) - 高麗の京畿近郊の3道から23郡県を編入しながら獐州も開城府に編入され、京畿道に移った。
- 1310年(忠宣王元年)- 漣州に改名した。この時から漣川となった。
- 1413年(朝鮮太宗13年) - 県監を設置。
- 1414年(朝鮮太宗14年) - 麻田県と合併されて麻漣県となったが再度分割された。
- 1895年旧暦閏5月1日(新暦6月23日) - 漢城府漣川郡に改編。[3]
- 1896年8月4日 - 京畿道漣川郡に改編。[4]
- 1906年 - 江原道鉄原郡官仁面を編入。
- 1914年
- 1934年4月1日 - 東面・北面が合併して朔寧面が成立。(12面)
- 1938年1月1日 - 郡内面が漣川面に改称。[7](12面)
- 1941年 - 嶺斤面を全谷面に改称。(12面)
- 1945年
- 1946年
- 1948年9月9日 - 朝鮮民主主義人民共和国の建国に伴い漣川郡もその管轄となる。
- 1953年7月27日 - 朝鮮戦争の休戦により、朔寧面・西南面の大部分を除く全域を韓国政府が収復。(しかし、軍事境界線の民間人統制区域内の旺澄面高棧上里・高旺里・基谷里の各一部未収復、現在の開城特別市長豊郡羅浮里の一部。)
- 1954年11月17日 - 収復地区臨時行政措置法により、漣川郡に対する施政権が回復。坡州郡の全谷面・百鶴面を返還。以下の8面で再出発。[8]
- 1963年1月1日 - 行政区画の見直しが実施される。[12](9面)
- 1965年5月1日 - 百鶴面元堂出張所(旧長湍郡長南面の区域を管轄)を設置。[13]
- 1979年5月1日 - 漣川面が漣川邑に昇格。[14](1邑8面)
- 1983年2月15日 - 行政区画の見直し。(1邑8面)[15]
- 官仁面が抱川郡に移管。
- 抱川郡青山面の一部を編入し、漣川郡青山面を設置。
- 1985年10月1日 - 全谷面が全谷邑に昇格。[16](2邑7面)
- 1987年1月1日 - 嵋山面石墻里が百鶴面に編入。[17](2邑7面)
- 1989年
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行政

行政区域
- 打ち消し線が表示されたところは未収復地域を意味する。
- 一部の里は軍事境界線付近および北朝鮮の実効支配下の無人地区となっている。
警察
消防
- 漣川消防署(全谷邑にある)
教育
高等学校
(すべて公立)
- 漣川高等学校(へき地校:休戦ラインに接した地域ラ級)
- 全谷高等学校
交通
鉄道
国道
- 国道3号
- 国道37号線 (韓国)
名所・観光スポット
脚注
関連項目
外部リンク
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