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坡州市
韓国・京畿道の市 ウィキペディアから
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坡州市(パジュし)は、大韓民国京畿道北西部に位置する市。板門店のある軍事境界線(38度線)を隔てて北朝鮮と接する最前線で、市域に非武装地帯がある唯一の市である。また、人口は2022年5月31日の統計で50万を超えたため、2024年1月に大都市に指定された[2]。
この項目では、かつて存在した長湍郡についても述べる。
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地理
要約
視点
東は京畿道楊州市・漣川郡と接し、南は高陽市、西は漢江を隔てて金浦市と接する。北は軍事境界線を隔てて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の開城特別市と接する。北部から西部にかけて臨津江(イムジンガン)が流れる。
気候
市内北部の臨津江駅に近い場所には坡州気象台(旧・汶山気象台)が置かれているが、ここは周囲に住宅も無い農村地帯でもあるために韓国でも有数に寒さの厳しい場所となっており、厳冬期はマイナス15度以下になることが多い。最高気温極値は37.6℃(2018年8月1日)、最低気温極値は-25.9℃(2010年1月6日)[3]である。
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概要
長らく軍事境界線に接していることもあり開発が遅れていたが、1996年の市への昇格以降は市の南部を中心にソウルのベッドタウンとして、マンションが林立して都市化している。
観光地として臨津閣・烏頭山統一展望台・南侵第3トンネルなどがあるほか、民統線以北の板門店や自由の村なども市域に含まれる。かつては在韓米軍と韓国軍の基地に依存した地域で、ヨンジュコル(용주골、en:Yong Ju Gol)は兵士相手の歓楽街・風俗街である[6][7]。21世紀に入り、大韓サッカー協会の坡州トレーニングセンター、英語教育施設である坡州英語村、ギャラリーや美術館や芸術家のアトリエが集積するヘイリ芸術村、出版業者が集積する「坡州出版都市」など、文化・スポーツ施設が土地が広く緑の多い当地に集まりつつある。
歴史
要約
視点
高句麗時代は述尓忽・波害平史・泉井口で、新羅景徳王の時に峰城・坡平・交河となった。高麗時代になっても地名は変更されなかったが、12 - 13世紀に峰城は瑞原に改名された。李氏朝鮮時代は瑞原・坡平を合併して原平と呼ばれ、その後坡州・交河になった。
- 1459年 - 坡州牧(地方長官)設置。
- 1895年旧暦5月1日 - 漢城府坡州郡に改編。[8]
- 1896年8月4日 - 京畿道坡州郡に改編。[9]
- 1914年4月1日 - 郡面併合により、交河郡が坡州郡に編入。坡州郡に以下の面が成立。[10](11面)
- 瓦石面・青石面・臨津面・州内面・泉峴面・条里面・月籠面・炭県面・広灘面・坡平面・衙洞面
- 1934年4月1日 - 瓦石面・青石面が合併し、交河面が発足。[11](10面)
- 1945年11月4日 - 漣川郡積城面・全谷面・百鶴面・南面(漣川郡の38度線以南の地域)を編入。[12](12面)
- 積城面・全谷面・百鶴面を坡州郡積城面に改編。
- 1946年2月5日 - 南面が楊州郡に編入。(11面)
- 1954年11月17日 - 収復地区臨時行政措置法による漣川郡の施政権回復に伴い、行政区画を見直し。[13](11面)
- 積城面のうち、旧全谷面・百鶴面を漣川郡に返還。三和里が漣川郡嵋山面に編入。
- 1963年1月1日 - 行政区画の見直し(11面)[14]
- 長湍郡郡内面が臨津面に編入。
- 積城面訥木里が漣川郡全谷面に編入。
- 1972年12月28日 - 長湍郡廃止に伴う見直し。[15](15面)
- 旧長湍郡の長湍面・津東面・津西面を編入。
- 臨津面のうち、旧郡内面部分を坡州郡郡内面として分離・復活。
- 1973年7月1日 - 行政区画の見直し(2邑13面)
- 1979年5月1日 - 旧長湍郡の区域を管轄する郡内出張所を設置。
- 1980年12月1日 - 州内面が州内邑に昇格。[18](3邑12面)
- 1983年2月15日 - 行政区画の見直し(3邑12面)
- 楊州郡白石面霊場里・基山里が広灘面に編入。
- 坡平面梨川里が汶山邑に編入。
- 州内邑を坡州邑に改称。
- 1987年1月1日 - 広灘面基山里が楊州郡白石面に編入。(3邑12面)
- 1989年4月1日 - 行政区画の見直し(4邑11面)
- 泉峴面が法院邑に改称・昇格。
- 交河面上支石里が条里面に編入の上、陵案里に改称。
- 1996年3月1日 - 坡州郡が坡州市に昇格。[19](3邑11面2洞)
- 旧金村邑が金村1洞・2洞に分割。
- 2000年6月12日 - 条里面竹院里が大院里に改称。[20]
- 2002年4月1日 - 人口の増加による邑の設置。(5邑9面)
- 交河面が交河邑に昇格。
- 条里面が条里邑に昇格。
- 2011年
- 2014年6月20日 - 汶山邑の漢字表記を文山邑に変更(ハングル表記は変更なし)。
- 2021年7月1日 - 長湍出張所廃止。事務は4ヶ面の事務所に移管[22]。
行政

行政区域
警察
消防
- 坡州消防署(坡州邑にある)
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教育
- 斗元工科大学 坡州キャンパス
- 信興大学 坡州グローバル・キャンパス
- 雄祉税務大学
軍事


板門店の南に位置するソウル防衛の最前線であり、米軍や韓国軍の基地が群集する。
- 米軍キャンプ名
- Camp Bonifas
- Camp Edwards
- Camp Garry Owen
- Camp Giant
- Camp Greaves
- Camp Howze
- Camp Stanton
提携都市
交通



鉄道
市域をソウルと新義州を結ぶ京義線が走り、2009年より汶山駅(現:文山駅)より南が広域電鉄化され、2020年には電化区間が臨津江駅まで延伸された。
線路は長らく汶山駅の北側で中断され、南北分断の象徴となっていたが、近年南北関係の改善により、汶山 - 開城間の鉄道線路復旧工事が実施された。一般の旅客は軍事境界線に近い都羅山駅まで向かうことができるが、同駅は民間人出入統制区域内にあるため、入域には手続きが必要な上、ツアー客以外は駅の外に出ることができない(詳細は該当記事を参照)。
国道
バス
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坡州市出身の有名人
坡州市を舞台とした作品
映画
- 坡州 パジュ(2009年)
- バーニング(2018年)
長湍郡
要約
視点
長湍郡(チャンダンぐん、장단군)は、日本統治時代から韓国独立後の1972年末まで存在した郡である。
概要
高句麗時代は長浅城と呼ばれ、新羅景徳王の代に長湍と呼ばれた。高麗時代は一時湍州と呼ばれ、李氏朝鮮時代は臨湍・臨津を経て長湍と呼ばれ、都護府がおかれた。1895年に長湍郡となり、1906年に開城郡の一部が長湍郡に移管、逆に長湍郡の一部を麻田郡(現在の漣川郡西部)に移管する改編を行った。
日本統治時代は京義線長湍駅が設置されていた。
終戦とともに38度線で郡が南北に分断され、さらに朝鮮戦争を経て軍事境界線が現在の位置に確定した後、韓国統治下の全域が民間人出入統制区域に指定されたため、一般人の立ち入りが禁止されて以降は有名無実の行政区画となり、宣伝村として意図的に残された自由の村(郡内面造山里台城洞)を除く全集落が消滅した。坡州郡・漣川郡への一部編入を経て、1972年12月28日に最後まで残った部分が坡州郡に編入され、韓国統治下の長湍郡は行政上消滅した。
なお、北朝鮮統治下の「未収復地域」において名目上設置されている長湍郡は存続しており、以北五道委員会により名誉郡守・面長を任命している(編入により消滅した韓国側の長湍郡地域にも名誉面長が一部置かれている)。
年表
- 1906年 - 開城府大南面・小南面を編入、長東面・江東面を麻田郡に移管。
- 1914年4月1日 - 郡面併合により、古南面の一部[23]が漣川郡に編入。長湍郡に以下の面が成立。(10面)
- 郡内面・津南面・津西面・江上面・大江面・長道面・長南面・津東面・大南面・小南面
- 1938年1月1日 - 津南面が長湍面に改称。[24](10面)
- 1945年
- 1953年7月27日 - 朝鮮戦争休戦。郡内面・津東面・長南面の全域と長湍面の大部分・津西面・大江面・長道面の各一部が韓国政府の統治区域(津西面・大江面・長道面は非武装地帯)となる[26]。のちに長湍郡は全域が民間人出入統制区域に指定され、行政機能を事実上失う。
- 1954年11月17日 - 収復地区臨時行政措置法により、長湍郡の一部を漣川郡に編入。[13](5面)
- 江上面 → 旺澄面の一部。(実際は全域が北朝鮮統治区域)
- 大江面・長道面および長南面の一部 → 百鶴面の一部。
- 1963年1月1日(3面)[14]
- 郡内面が坡州郡臨津面に編入。
- 長南面が漣川郡百鶴面に編入。
- 1972年12月28日 - 長湍面・津東面・津西面が坡州郡に編入。これにより韓国政府の統治区域内の長湍郡を廃止。[15]
以北五道委員会の行政区画
長湍郡は10面で構成されている。2013年現在、長湍郡守は、ホ・ドケン(第19代)である。
漣川郡側では北朝鮮の実効支配区域にも名目上の地名を付与している。
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その他
脚注
外部リンク
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