トップQs
タイムライン
チャット
視点

立花統次

ウィキペディアから

Remove ads

立花 統次(たちばな むねつぐ、天正4年(1576年) - 慶長5年(1600年))は、戦国時代武将豊後国大名大友氏、その重臣戸次氏の家臣。大友氏庶流の戸次氏の一族。父は戸次氏重臣の森下釣雲。立花家母衣武者11騎の一人。馬印は金馬簾片輪車[1]

概要 凡例立花統次, 時代 ...

生涯

天正4年(1576年)、森下釣雲の三男[2]として生まれる。天正18年(1590年)、立花統春が27歳の若さで自害し、その名跡を継ぐ。文禄・慶長の役で戦功を挙げ[3][4]文禄5年(1596年)に1000石を拝領した[5]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際、主君・立花宗茂の母衣武者十一騎の一人[6][7]として出陣、大津城の戦いに参戦した[4][8]

後の江上八院の戦いに、立花家老小野鎮幸の指揮下で第三陣の将として兵を率い、単騎駆けして敵数陣を突破し、獅子奮迅の奮戦ぶりを「阿修羅のごとく」と讃えられたが、騎乗する軍馬の体力を消耗しすぎたので、重囲に陥て討死する[注 1][9][10][11][12][13]

人物

幼いにして穎悟良将の風あり。大変な美男子であったという[3][14]

また、若くにして才覚が優れ、老功の者のように思慮深くて島津家中の伊集院忠棟討伐事件を対処した。この件で島津家臣だけではなく島津義弘からも称賛されたという[15][3][16]

死後

戦死の地には地元の民によって「三太夫地蔵」として祀られている。 三太夫地蔵の周辺の村では、近年まで立花三太夫の霊を鎮めるため、毎年夏の8月になると「立花さん祭り」が催されていた。 今でも付近ではその地蔵は「立花さん」と言われて、地元の人びとに親しまれている[17]

注釈

  1. 鍋島方の記録には「三太夫、馬上に長身の鎗を抜き、阿修羅の如く駆け回り、敵味方をあっと驚かせた」とあり、また「三太夫息もつかせず、攻めよせて、その激しさは茂忠(鍋島軍の先鋒)も危うかった」と記録されている。 戦死のありさまは、敵の鉄砲手今泉軍助けなる者から背から胸へ撃ち抜かれて落馬したと云い、又一説には堀を飛び越えんと馬に一鞭を当てたが、馬も疲れていたのか、向こうの堀岸を踏みかけ、馬もろとも堀の中に落ちる。敵兵この時とばかり討ちかかり遂に三太夫を討ちとったとも云われている。

出典

参考文献

外部リンク

関連項目

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads