トップQs
タイムライン
チャット
視点
第五号型水雷艇
日本の三等水雷艇の艦級 ウィキペディアから
Remove ads
第五号型水雷艇(だいごごうがたすいらいてい、旧字体:第五號型水雷艇)は、日本海軍の水雷艇。同型艇14隻。
![]() |
Remove ads
概要
1885年(明治18年)度にフランス・シュナイダー社に発注、造船所の名をとり「クルーゾー(Creusot)型」と言われている。設計は、1886年から1890年まで日本に滞在したルイ=エミール・ベルタンによる。第5号から第9号まではフランスのシャロン=シュル=ソーヌで建造され、組み立てを小野浜造船所で行ったが、第10号以降は建造も小野浜で行われた[1]。また機関の自力製造も行われるようになった。原型はフランス海軍の第75号型水雷艇だが、転覆事故が続発し本艇の建造中に改正がされている。
各艦は日清戦争に参戦。1895年2月5日未明の威海衛攻撃には第5号などが参加した。第6号の艇長は、後に内閣総理大臣となる鈴木貫太郎大尉だった。この時の攻撃では「定遠」に魚雷が命中、大破擱座させている。また第9号は魚雷発射に成功したが被弾のため機関が全滅し漂流、生存者が救助され艇は放棄された。この艇は夜が明けた後に清国軍に拾われて、日本海軍の被捕獲の第1号となっている(戦後復帰)。
1895年(明治28年)に第16号を喪失、残りの艇は1907年(明治40年)から1910年(明治43年)にかけて除籍された。
Remove ads
同型艦
竣工日の後は(建造所/組み立て所)。小野浜造船所は1893年(明治26年)より呉造船支部と改称。
- 第5号 : 1892年(明治25年)3月26日竣工(クルーゾー/小野浜)。1907年(明治40年)9月28日除籍。
- 第6号 : 1892年(明治25年)3月26日竣工(クルーゾー/小野浜)。1908年(明治41年)4月1日除籍。
- 第7号 : 1892年(明治25年)4月2日竣工(クルーゾー/小野浜)。1910年(明治43年)4月1日除籍。
- 第8号 : 1892年(明治25年)4月7日竣工(クルーゾー/小野浜)。1910年(明治43年)4月1日除籍[1]。
- 第9号 : 1892年(明治25年)4月11日竣工(クルーゾー/小野浜)。1908年(明治41年)4月1日除籍。
- 第10号 : 1892年(明治25年)4月17日竣工(小野浜)。1908年(明治41年)4月1日除籍。
- 第11号 : 1894年(明治27年)3月31日竣工(呉造船支部)。1910年(明治43年)4月1日除籍。
- 第12号 : 1893年(明治26年)10月11日竣工(呉造船支部)。1910年(明治43年)4月1日除籍。
- 第13号 : 1893年(明治26年)10月11日竣工(呉造船支部)。1910年(明治43年)4月1日除籍。
- 第14号 : 1893年(明治26年)10月18日竣工(呉造船支部)。1908年(明治41年)4月1日除籍。
- 第16号 : 1893年(明治26年)11月29日竣工(呉造船支部)。1895年(明治28年)5月11日沈没。
- 第17号 : 1893年(明治26年)11月29日竣工(呉造船支部)。1910年(明治43年)4月1日除籍。
- 第18号 : 1893年(明治26年)11月1日竣工(呉造船支部)。1910年(明治43年)4月1日除籍。
- 第19号 : 1894年(明治27年)2月17日竣工(呉造船支部)。1910年(明治43年)4月1日除籍。
Remove ads
脚注
- 数値(メートル)は『世界の艦船』による。フィートインチの数値は『日本駆逐艦物語』による。メートルに換算すると33.7566m。
出典
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads