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篠路歌舞伎
日本の北海道篠路村で演じられていた農村歌舞伎 ウィキペディアから
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篠路歌舞伎(しのろかぶき)は、北海道札幌市北区篠路地域に伝わる地歌舞伎。明治時代に村内烈々布(れつれっぷ)地区の烈々布神社の祭礼の際に行われた『篠路村烈々布素人芝居』が始まりとされる。1973年発行の『北海道演劇史稿』で篠路歌舞伎と名付けられた[1]。
歴史
要約
視点



1898年(明治31年)8月、中西正次郎を中心として、篠路村烈々布青年会の原型となる「若連中」が結成された[2]。開拓から日の浅い当時は村に特段の娯楽もなく、農閑期の冬季になると博打にのめり込む若者が多かったので、こうした風紀を矯正し、また部落の団結心を養うことを目的としていた[2]。
1900年(明治33年)の春祭りの余興として、若連中が芝居を演じたことが、篠路歌舞伎の原点である[3]。このときの中心人物である大沼三四郎(芸名:花岡義信)は小説の講読も行っており、それが佳境に入ると身振りや手ぶり、声色などあたかも芝居のような独演で人気を得ていた[4][5]。
1902年(明治35年)頃になると若連中の中から「祭典の余興に芝居を、大沼三四郎に指導を」となり、同年4月25日の烈々布神社の祭典で烈々布素人芝居として初公演することになった[6]。この芝居は非常に人気を集めたため、これ以降毎年祭典に素人芝居が奉納されることになった[4][5]。
1906年(明治39年)には芝居の引幕やかずら、その他の小道具を新調し、篠路歌舞伎が本格的に始動する[3]。
大正初期までは素人芝居は青年会と一体で上演されていた。
1917年(大正6年)に大沼三四郎が「素劇楽天会」を作り、演劇集団としての他地域への広がりや芸の向上などが図られた[4][5]。1919年(大正8年)[注釈 1]には烈々布神社の境内に歌舞伎専用の劇場『烈々布倶楽部』を建設。廻り舞台を備えたものだった[6][1]。最盛期には50人の大所帯になり、500人もの観客が訪れたという[1]。
しかし昭和期にはいると満州事変により座員の確保が難しくなったこと、国鉄札沼線の開通により娯楽の中心が札幌に移ったことなどからこの篠路歌舞伎も衰退の一途をたどった[4][5]。
1934年(昭和9年)11月に「花岡義信一世一代御名残興行」で終焉を迎えた[4][5]。
札幌大谷大学社会学部の森雅人教授は「リーダーの花岡義信をまつる碑が象徴するように、篠路歌舞伎は移住者の思いをまとめる原動力の一つ」と語っている[1]。
復活と保存
1973年(昭和48年)7月、NHK札幌放送局により「ほっかいどう7:30」内で『消えた歌舞伎』として当時の劇場の模型が作成され篠路歌舞伎が紹介された[7]。
1985年(昭和60年)の篠路コミュニティセンター開館時に祝賀会で歌舞伎を復活させようと、柳沢正幸により「篠路歌舞伎ほてから座」が旗揚げされた。祝賀会では「白波五人男」が上演され、約50年ぶりの復活となった[4][5]。
1986年(昭和61年)に設立された「篠路歌舞伎保存会」は、2022年現在では会員数が88名となり「篠路子ども歌舞伎」などに支援し、保存に勤めている[8]。また北区では伝統文化育成プログラム促進事業を推進し、農村歌舞伎の保存や後継者の育成支援を行っている[9]。
文化財認定

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関連人物
大沼三四郎(花岡義信)
1881年(明治14年)に現在の山形県庄内町にて誕生する[11]。1890年(明治23年)に父の佐吉と共に篠路村烈々布に入植した[6][11]。1902年(明治35年)大沼は、若連中という青年会と共に芝居をする。これが、大沼にとっての初公演となった。
地方巡業も行うなど[6]、歌舞伎の研究や演技に磨きをかけていた[12]。また、花岡義信の名でも舞台に出るようになった。
32年間、大沼は歌舞伎を続けてきたが、1934年(昭和9年)に引退公演を行い、歌舞伎の表舞台からは手を引き[13]、その後は演劇指導者として丘珠などへ赴いていたが、戦後に村会議員を経て[6]篠路村の村長となり、札幌市と篠路村の合併に貢献[6]。他方で公務のために演劇指導をする機会が減り、やがて歌舞伎からは手を引いた[13]。
1935年(昭和10年)3月、当時の烈々布神社向かいに花岡義信の功績をたたえる碑が建てられた。現在は篠路の民家に移設されている[14]。1969年(昭和44年)死去[6]。
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脚注
参考文献
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