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紫式部日記

紫式部によって記された日記 ウィキペディアから

紫式部日記
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紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)は、紫式部によって記された日記とされる。藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部が、1008年寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月まで、宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。

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紫式部日記絵巻五島美術館蔵、国宝[1]

写本宮内庁書陵部蔵の黒川本が最もよいとされているが一部記載については他の写本がすぐれているとも。写本の表紙の表題は『紫日記』とあり、内容にも紫式部の名の記載はなく、いつから『紫式部日記』とされたかは不明。

全2巻であり1巻は記録的内容、2巻は手紙と記録的内容である。『源氏物語』の作者が紫式部であるという通説は、伝説とこの『紫式部日記』にでてくる記述に基づいている。

鎌倉時代初期の13世紀前半ころに、紫式部日記のほぼ全文を絵画化した「紫式部日記絵巻」が制作された。

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来歴

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寛弘5年(1008年)11月1日に土御門殿で催された敦成親王(後の後一条天皇)誕生後の「五十日の祝い」の宴席場面。左衛門督藤原公任(画面右、室内を眺めやる人物)が「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ(失礼ですが、この辺りに若紫さんはおりませんか)」と酔態で戯れに尋ねる。『紫式部日記絵巻』より(五島美術館蔵)

古写本には表題を「紫日記」とするものが多く、室町時代の源氏物語の注釈書「河海抄」には、「紫記」・「紫式部が日記」・「紫日記」・「紫式部仮名記」といったさまざまな名称で現存する紫式部日記に含まれる文章が引用されている。

1010年寛弘7年)に完成されたとするのが通説である。13世紀(鎌倉時代)には『紫式部日記絵巻』という紙本着色の絵巻物が著された。作者は不詳である。なお、『栄花物語』と一部文章が全く同じであり、同物語のあとがきには日記から筆写した旨記されている。

中世の源氏物語研究の中では取り上げられることがほとんど無かったが、江戸時代安藤為章紫家七論で取り上げて以降、源氏物語の成立事情を考えるための第一資料とされるようになっている。

本書の1008年(寛弘5年)11月1日の記述が源氏物語が歴史上はじめて記録されたものであることを根拠として丁度千年後の2008年(平成20年)が源氏物語千年紀に、また11月1日古典の日に定められた[2]

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構成

前半部および末尾は、できごとの日記体記述である。その間に「消息文」と呼ばれる、紫式部の意見を述べた書簡体の部分がはさまれている。この両部分の対照がこの日記の特徴である。筆写される経過で、本来の日記の中に書簡がまぎれこんだのではないかという説、宮仕えを控えた紫式部の娘の為に書かれたという説もある。

日記体部分

寛弘5年7月[注 1]出産のため、中宮彰子が父藤原道長の土御門邸へ里帰り。
寛弘5年8月懐妊10ヶ月に入る。公卿たちが宿直。
寛弘5年9月めでたく敦成親王(後一条天皇)を出産。
寛弘5年10月一条天皇が面会に土御門邸へ行幸。
寛弘5年11月誕生五十日の祝宴。中宮彰子は内裏へ還る。
寛弘5年12月紫式部も内裏に戻る。初出仕の頃の回想。
寛弘6年1月元旦は坎日(かんにち)の凶日で、若宮の戴餅の儀は延期。

内容

中宮彰子の出産が迫った1008年寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月にかけての諸事が書かれている。史書では明らかにされていない人々の行動がわかり、史料的価値もある。自作『源氏物語』に対しての世人の評判や、彰子の同僚女房であった和泉式部赤染衛門らの人物評や自らの人生観について述べた消息文などもみられる。また、彰子の実父である藤原道長や、同母弟である藤原頼通藤原教通などの公卿についての消息も多く含む。

本文

要約
視点

以下は現代語訳の一部。現代語訳は『源氏物語の世界(http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/)』渋沢栄一訳。訳者ご本人のHPには「 わたしはweb上に公開したわたしの著作物に対して、著作権や知的財産権などを主張しようとは考えません。利用者の良識によって、広くいろいろと利用されさまざまに活用されることを願っています。」と明記されている。ただし「 私の作成したテキストを元に二次的著作物として公表する場合には、必ず当webによった旨を明記してください。」と注意書きがいくつかあるので、利用者は該当HPにて利用規約を読んでから利用すること。

*中宮様は中宮彰子、殿は藤原道長である。

第一部 敦成親王誕生記

《第一章 寛弘五年(一〇〇八)秋の記》

【一 土御門殿邸の初秋の様子】

 秋の風情が現れ立ってくるにつれて、土御門邸の様子は、何とも言い表わしようもないほどに趣がある。池の周辺の梢どもや、遣水のほとりの草むらは、それぞれに一面に色づいて、おしなべて空の様子も優美なことに引き立てられて、不断の御読経の声々に、しみじみとした情趣が深まっていった。だんだんと凉しくなっていく風の感じにつけても、いつもの絶え間のない遣水の音が、それに一晩中混じり合って聞こえてくる。

 中宮の御前においても、側近くお仕えする女房たちがとりとめのない話をしているのをお聞きあそばしながら、大儀そうでいらっしゃるらしいのに、平静をよそおってお隠しあそばしていらっしゃるご様子などが、まことに今さらお誉め申し上げるまでもないことだが、嫌なこの世の心の慰めには、このようなお方を、探し出してでもお仕えすべきであったのだと、ふだんの考えとはうって変わって、たとえようもなくすべての憂えが自然と忘れられるのも、一方では不思議である。


【三 道長との女郎花の歌の贈答】

 渡殿の戸口にある部屋から外を眺めていると、うっすらと霧が立ちこめている朝の草木の露もまだ落ちない時分に、道長殿が庭をお歩きあそばして、御隨身を呼び寄せて、遣水の手入れをさせなさる。橋の南に咲いている女郎花がたいそう花盛りであるのを、一枝折らせなさって、わたしの几帳の上からちょっとお覗かせになるご様子が、とても気後れするほど立派なのに対して、自分の朝の寝起きの顏が恥ずかしく思わずにはいられないので、

「これに対しての返歌が、遅くなっては具合悪いことでしょう。」と殿が仰せになったのを言い訳にして、硯のもとに身を寄せた。

   女郎花盛りの色を見るからに 露の分きける身こそ知らるれ (女郎花の朝露を置いた盛りの美しい色を見るとすぐに(露が分け隔てして恩恵を受けないわが身が思い知られます)(一)

 「ああ、何と早いことよ」と、殿はにっこりなさって、硯を取り寄せなさる。

    白露は分きても置かじ女郎花 心からにや色の染むらむ (白露は花に分け隔てをして置いているのではないでしょう、女郎花が自分から美しい色に染まって咲いているのでしょう)(二)


【八 九月九日、菊の綿の歌】

 九月九日に、菊の綿を兵部のおもとが持って来て、

 「これを、殿の北の方倫子様が、特別にあなたに。『たいそう念入りに、老いを拭い捨てなさい』と、仰せになりました。」

と言うので、

  菊の露若ゆばかりに袖触れて 花のあるじに千代は譲らむ(菊の露にわたしはちょっと若返るくらいに袖を触れることにしてこの花の持ち主であるあなた様に千年の寿命はお譲り申し上げましょう)(四)

と詠んで、ご返礼申し上げようとしているうちに、「北の方様はあちらにお還りになられました」ということなので、差し上げる用が無くなったので手許にとどめ置いた。


【一一 九月十一日の暁、加持祈祷の様子】

 十一日の明け方に、北側の御障子を二間取りはなって、中宮様は廂の間にお移りあそばす。御簾なども十分に掛けることができないので、御几帳を幾重にも重ね並べておいでになる。雅慶僧正や定澄僧都、法務僧都の済信などが伺候して御加持申し上げる。院源僧都は、殿が昨日お書きあそばしたご安産の願文に対して、さらにたいそう尊い文言を書き加えて、読み上げ続けている文言が実に尊く聞こえ、頼もしそうなことはこの上ないうえに、殿が一緒になって、仏を念じ申し上げていらっしゃる様子が心強くて、いくら何でもとは思いながらも、ひどく悲しいので、居あわせた女房たちはみな涙をこらえることができず、

 「縁起でもありません、そうお泣きなさるな。」

などと、お互いに言いながらも、涙を抑えることができないのであった。

 人が大勢混んでいては、ますます中宮様の御気分も苦しくいらっしゃるだろうということで、殿は女房たちを南面や東面にお出だしになって、しかるべき女房だけが、中宮様のいらっしゃる二間の側に伺候する。殿の北の方と讃岐の宰相の君、内蔵の命婦は、御几帳の内側におり、さらに仁和寺の僧都の君と三井寺の内供の君も中に呼び入れた。殿が万事につけ指図なさる大きなお声に、僧侶たちの読経の声も圧倒されて聞こえないくらいである。

 もう一間に控えていた女房たちは、大納言の君、小少将の君、宮の内侍、弁の内侍、中務の君、大輔の命婦、大式部のおもと、この人は殿の宣旨ですよ。たいそう長年中宮様にお仕えしてきた女房たちばかりが、心配で心配でたまらないでいる様子などは、まことにもっともであるが、わたしなどは中宮様にお馴染み申し上げてまだ日も浅いけれど、又となく大変なことだと、心中はっきりと思われた。

 また一方で、わたしたちのいる後ろの境目に立ててある几帳の外側には、中宮様の妹君たちの乳母の尚侍研子様付きの中務の乳母、姫君威子様付きの少納言の乳母、幼い姫君嬉子様付きの小式部の乳母などが入り込んで来て、二つの御帳台の後ろの狭い通路は、人も通ることがでない。行き来したり身動きする女房たちは、顏なども見分けられない。

 殿の御子息の頼通・教通たち、宰相中将藤原兼隆、四位少将源雅通などは言うまでもなく、左宰相中将源経房、中宮大夫藤原斉信などは、いつもはあまり親しくない方々までが、御几帳の上からともすれば顔を覗き込んだりして、わたしたちの泣き腫らした目を見られていたのも、すべて恥ずかしさを忘れていた。頭の上には魔よけの散米が雪のやうに降りかかっており、涙でくしゃくしゃになっている衣装がどんなに見苦しかったことであろうと、後になって考えるとおかしかった。


【二一 九月十七日夜、朝廷主催の御産養】

 御誕生七日目の夜は、朝廷主催の御産養である。蔵人少将藤原道雅を勅使として、御下賜の品々を書きたる目録を柳筥に入れて参上した。中宮様は目を通されるとそのまま中宮職の役人にお返しになる。勧学院の学生たちが行列を作ってお祝いに参上したが、その参上者の名簿を中宮様に御覧に入れる。それもお目を通されて職の役人にお返しになる。禄などもお与えになったようだ。今夜の儀式は、格別に一段と盛大で仰々しく騒ぎ立てている。

 御帳台の内側をおのぞき申したところ、このように国母として持ち上げられなさるが、御機嫌の良い様子にもお見えあそばさず、すこし苦しそうで面やせなさって休んでいらっしゃる御様子は、普段よりも弱々しそうで若く可愛らしげである。小さい灯籠を御帳台の内側に掛けていたので、隅々まで明るいので、ただでさえ美しいお顔が、どこまでも清らかに美しいうえに、たくさんあるお髪は結い上げなさると一段とお見事になるものだなあと思われる。口に出して申し上げるのも今さらめいているので、これ以上書き続けることは致しません。

 大体の儀式の内容は、先夜と同様の事である。上達部への禄は、御簾の内側から、女装束と若宮の御衣などを添えて差し出す。殿上人と蔵人頭の二人を始めとする禄は、順次側に寄って受け取る。朝廷からの禄は、大袿や衾、腰差などで、いつもの公的なもののようである。御乳付け役をご奉仕申した橘三位への贈物は、いつもの女の装束に、織物の細長を添えて、白銀の衣筥、包なども同じく白いものであったか。また包んだ品物を添えて賜ったなどと後から聞きました。詳しくは見ておりません。

 八日目の日には、女房たちは色とりどりの装束に着替えていた。


《第二章 寛弘五年(一〇〇八)冬の記》

【五 行幸当日の女房たちの装束】

 御簾の中を見わたすと、禁色を聴された女房たちは、いつものように青色や赤色の唐衣に地摺の裳を付け、上着はみな一様に蘇芳色の織物である。ただ馬の中将の君だけは葡萄染めの上着を着ておりました。打衣などは、濃いあるいは薄い紅葉を取り混ぜたようにして、内側に着ている袿などは、いつもの梔子襲の濃いあるいは薄いのや、紫苑色や、裏を青にした菊襲を、もしくは三重襲など、それぞれ思い思いである。

 綾織物を聴されていない女房で、例の年輩の女房たちは、無紋の青色、もしくは蘇芳色など、みな五重襲で、ふせの襲ねなどはみな綾織である。大海の摺模様の裳の水色は、華やかでくっきりとして、裳の腰などは固紋を多くの人はしていた。袿は菊の三重五重襲で、織物は用いていない。若い女房は、菊の五重襲の袿の上に唐衣を思い思いに着ていた。ふきの襲の表は白色で、青色の上を蘇芳色にして、下の単衣は青色の者もいる。また表は薄蘇芳色で、次々と下に濃い蘇芳色を着て、その下に白色を混ぜているのも、総じて配色に趣きがあるのだけが才気が見える。何とも言いようもなく珍しく、仰々しい桧扇などが見える。

 くつろいでいる時は、整っていない容貌の人が混じっているのも見分けられるが、皆が一生懸命に着飾り化粧して、人に負けまいと競い合っているのは、女絵の美しいのにたいそうよく似て、年齢の具合が年輩者とごく若い者との違いだけが、髪がすこし衰えている様子やまだ盛りでたくさんある違いぐらいが見わたされる。それによって、桧扇の上から現れている額つきが、妙に人の容貌を上品にも下品にもして見せるもののようである。このような中にあって優れていると見えるのはこの上なく美しい人なのであろう。

 行幸の前から、主上付きの女房で、中宮様付きも兼ねて仕えている五人は、こちらに参集して伺候している。内侍が二人、命婦が二人、御給仕役が一人である。主上に御膳物を差し上げるということで、筑前の命婦と左京の命婦が、一髻の髪上げをして、内侍が出入りする隅の柱のもとから出て来る。これはちょっとした天女である。左京の命婦は青色の柳襲の上に無紋の唐衣、筑前の命婦は菊の五重襲の上に唐衣で、裳は例によって共に摺裳である。御給仕役は、橘三位徳子である。青色の唐衣に、唐綾の黄菊襲の袿が表着のようである。この人も一髻を髪上げしていた。柱の陰のために十分には見えない。

 殿が若宮をお抱き申し上げなさって、御前にお連れ申し上げなさる。主上がお抱き取りになる時に、若宮のすこしお泣きなさるお声がとても可愛いらしい。弁宰相の君が若宮の御佩刀を捧持して伺候している。母屋の中戸から西の方の、殿の北の方がいらっしゃる方に、若宮はお連れ申し上げなさる。主上が御簾の外にお出ましになってから、宰相の君はこちらに戻って、「とても目立ってしまって、きまりの悪いをしました。」と言って、ほんとうに頬を赤らめて座っている顔は、端正で美しい感じがする。衣装の色合いも、他の人よりは一段と引き立って着こなしていらっしゃった。


【六 御前の管弦・舞楽の御遊】

 日が暮れてゆくにつれて、いろいろな楽の音がとても興趣深い。上達部が帝の御前に伺候なさっている。万歳楽や太平楽、賀殿などという舞なども、長慶子を退出音声として演奏して、楽船が築山の向こうの水路を漕ぎめぐって行く時、遠くへ行くにつれて、笛の音も鼓の音も、それに松風も木立の奥から吹き合わせて、たいそう素晴らしい。

 とてもよく手入れされた遣水がさらさらと流れて、池の水波がさざなみを作り、何となく肌寒いのに、主上は御袙をただ二枚だけをお召しになっている。左京の命婦は自分が寒いものだから、帝にご御同情申し上げているのを、女房たちはひそひそと笑う。筑前の命婦は、

 「亡き女院(詮子)様がご在世中でした時、この邸への行幸は、とても度々あったことでした。その折は……、かの折は……。」

などと、思い出して言うのを、縁起でもない涙を流すことにもなってしまいそうなので、厄介なことだと思って、ことさらに相手にせず、几帳を隔てているようである。

 「ああ、その時はどんなだったのしょうか。」

などとでも言う人がいたならば、ほろりと泣き出してしまいそうである。

 帝の御前における管弦の御遊が始まって、たいそう興趣深い時分に、若宮の泣き声が可愛らしく聞こえなさる。右大臣(藤原顕光)が、「万歳楽が、若宮のお声によく合って聞こえます。」と言って、お褒め申し上げなさる。左衛門督などは、「万歳、千秋」と声を合わせて朗詠して、ご主人の大殿は、「ああ、これまでの行幸を、どうして名誉なことだと思っていたのであろうか。こんなにもめでたく素晴らしい行幸もあったのに。」と、酔い泣きなさる。いうまでもないことだが、ご自身でもお感じ入っている様子が、まことに素晴らしいことであった。

 殿は、あちら(西の対)へお出ましになる。主上は御簾の内側にお入りあそばして、右大臣を御前に呼び寄せて、筆をとってお書きになる。中宮職の役人や、殿の家司のしかるべき者すべてに、位階を上げる。頭弁に命じて加階の手続きは奏上させなさるようだ。

 新たな若宮の親王宣下の慶祝のために、藤原氏の上達部たちが連れ立って、お祝いの拝礼をなさる。同じ藤原であるが門流の分かれた人たちは、その列にお加わりにならなかった。次に、親王家の別当になった右衛門督は、中宮大夫ですよ、中宮権亮は、加階した侍従の宰相で、続いて次々の人びとが、お礼の拝舞をする。

 帝は中宮様の御帳台にお入りになって、間もないうちに、「夜がたいそう更けました。御輿を寄せます。」と、大声で言うので、帝は御帳台からお出ましになった。


【七 十月十七日 行幸翌日の中宮の御前】

 翌日の朝に、内裏からの勅使が朝霧もまだ晴れないうちに参上した。寝過ごして見ないで終わってしまった。今日、初めて若宮のお髪を剃り申し上げなさる。特に行幸の後にということでこうした。

 また一方、その日に若宮家の家司の別当や侍人などの職員が決まった。前もって聞いていないで、悔しいことが多かった。

 日ごろの中宮様の部屋のしつらいは、普段と違って質素にしていたが、平常に改まって、御前の様子はとても素晴らしい。何年もの間、待ち遠しくお思いになっていた若宮誕生が叶って、夜が明けると殿の北の方も参上なさって、若宮をお世話申し上げなさる、その華やかさはとても格別である。


【九 十一月一日 誕生五十日の祝儀】

 若宮のご誕生五十日の祝いは、霜月一日の日である。例のごとく女房たちが着飾って参集している中宮様の御前の様子は、絵に描いた物合せの場面に大変によく似ておりました。

 御帳台の東の御座所の際に、御几帳を奥の御障子から廂の間の柱まで隙もなく立て続けて、南面の廂の間に中宮様と若宮の御膳はお供えしてあった。その西側寄りに中宮様の御膳は例によって沈の折敷に何とかの台であったろう。そちらのことは見ていない。

 お給仕役の宰相の君讃岐で、取り次ぎ役の女房も、釵子や元結などをしていた。若宮のお給仕役は大納言の君で、東側寄りにお供えしてあった。小さい御膳台やお皿など、御箸の台や洲浜なども、まるで雛遊びの道具のように見える。そこから東の間の廂の御簾をすこし巻き上げて、弁の内侍や中務の命婦、小中将の君など、しかるべき女房だけが、順次取り次ぎながら差し上げる。奥の方にいたので、詳しくは見ておりません。

 今夜、少輔の乳母が禁色を聴される。おっとりした様子をしていた。若宮をお抱き申して、御帳台の中で、殿の北の方がお抱き取り申し上げられて、膝行しながら出ていらっしゃる灯火に照らされたお姿は、まことに立派な感じである。赤色の唐衣に、地摺の御裳を付け、きちんとお召しになっているのも、もったいなくも素晴らしくも見える。中宮様は葡萄染めの五重襲の袿に、蘇芳の御小袿をお召しになっている。殿がお餅は差し上げなさる。

 上達部のお座席は、例によって東の対の西の廂の間である。もうお二方の大臣も参上なさった。渡殿の橋の上に参って、また酔い乱れて大声を出しなさる。折櫃に入れた物や、いくつもの籠に入れた物などを、殿の所から、家司たちが次々と運んできて、高欄に沿って並べて置いてあった。松明の明かりが心もとないので、四位少将などを呼び寄せて、紙燭をささせて、人びとはそれらを見る。内裏の台盤所に持参すべきものだが、明日からは御物忌みということで、今夜みな急いで取り片付けた。

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 中宮大夫が、御簾のもとに参って、「上達部を、御前に召しましょう。」と啓上なさる。「お聞きとどけになりました。」と、取り次ぎの女房が言うので、殿をお始め申して、みな参上なさる。正面の階の東の間を上座として、東の妻戸の前までお座りになっていた。女房たちが、二列あるいは三列ずつにずらりと座って、御簾などを、その間にあたりに座っていらっしゃる女房たちが、寄り合って巻き上げなさる。

 大納言の君や宰相の君、小少将の君、宮の内侍という順に座っていらっしゃると、右大臣が近寄って来て、御几帳の切れ目を引きちぎって、酔い乱れなさる。「いいお年をして。」と非難しているのも知らずに、女房の扇を取って、みっともない冗談をたくさん言っていた。中宮大夫が、盃を取りて、右大臣の方へお出になった。催馬楽の「美濃山」を謡って、管弦の御遊も形ばかりだがたいそう興趣ある。

 その次の間の東の柱もとに、右大将(実資)が寄り掛かって、女房の衣の褄や袖口を数えていらっしゃる様子は、誰よりも格別である。酔い乱れた席であることをよいことにして、また誰であるかも分かるまいと思いまして、右大将にちょっと言葉をかけてみると、ひどく今風にしゃれた人よりも、実にたいそう立派な方でいらっしゃるようであった。盃が順に廻って来るのを、右大将は恐れていらっしゃるが、例によって無難な「千年も万代も」の祝い文句で済ました。

 左衛門督(公任)が、

 「失礼ですが、この辺に若紫さんはおりませんか。」

と、お探しになる。光源氏に似ていそうな人もお見えにならないのに、あの紫の上が、どうしてここにいらっしゃろうかと、聞き流していた。

 「三位の亮(実成)、盃を受けよ。」

などと、殿がおっしゃるので、侍従宰相(三位亮)は立ち上って、父の内大臣(公季)がいらっしゃるので、下手から出て来たのを見て、内大臣は感激のあまり酔い泣きなさる。権中納言(隆家)が、隅の間の柱もとに寄って、兵部のおもとの袖を無理やり引っ張って、聞くに耐えない冗談を言っているのに、殿は何ともおっしゃらない。


【一一 内裏還御の準備 御冊子作り】

 中宮様が内裏に還御なさるはずのことも近づいたが、女房たちは行事が次ぐ次と続きのんびりとしていられないのに、中宮様には物語の御冊子をお作りになろうということで、夜が明けると、まっさきに御前に伺候して、色とりどりの紙を選び調えて、それに物語の元本を添えては、あちこちに清書を依頼する手紙を書いて配る。その一方では清書された物語を綴じ集めて製本するのを仕事として毎日を過ごす。

 「どうして子持ちの方が、こんな冷たい時分に、このようなことをなさいますか。」と、殿は申し上げなさるものの、上等の薄様の紙や筆、墨などを持っていらっしゃっては、さらに御硯までを持っていらっしゃったのを、中宮様がわたしにお与えになったので、殿はそのことを大袈裟に惜しがりなさって、「奥まったところに隠れて伺候して、このようなことをしている。」とおっしゃって責める。けれども、上等な墨挟みや墨、筆などを下さった。

 自分の局に源氏物語の草稿本などを取りにやって隠して置いたのを、わたしが中宮様の所にいる間に、殿がこっそりいらっしゃって、お探しになって、それらをすべて内侍督研子様に差し上げておしまいになった。まずまずに書き直したのは既にみな分散してしまったし、手直ししてない本が研子様に差し上げられて、きっと気掛かりでならない悪い評判を取ったことでございましょうよ。

 若宮は片言のおしゃべりなどをなさる。主上におかれても待ち遠しくお思いになられるのも、ごもっともなことである。


《第二章 わが身と心を自省》

【四 日本紀の御局と少女時代回想】

 左衛門の内侍という人がいます。妙にわけもなくわたしのことを良くなく思っていたのを、知らないでいましたところ、嫌な陰口がたくさん聞こえてきました。

 内裏の主上様が『源氏物語』を人にお読ませになりながらお聞きになっていた時に、

 「この人は、きっと日本紀を読んでいるに違いない。本当に学識があるようだ。」

と、仰せになったのを、ふと当て推量に、「たいそう学識を鼻にかけている。」と殿上人などに言いふらして、「日本紀の御局」と渾名をつけたのだったが、とても滑稽なことです。わたしの実家の侍女の前でさえ包み隠していますのに、そのような宮中などでどうして学識をひけらかすことをしましょうか。

 わたしの弟の式部丞という人が、まだ子供で漢籍を読んでいました時に、側で聞き習っていたが、弟は理解するのが遅かったり、すぐに忘れるところがあったりしたのを、わたしは不思議なほど習得が早かったので、漢籍の学問に熱心であった父親は、「残念なことだ。男子でなかったのが不幸なことであった」と、いつも嘆いておられました。

 それなのに、「男性でさえ学識を鼻にかける者は、どのようなものでしょうか。栄達はしないもののようですよ」と、だんだんと人が言うのを耳にするようになってからは、一という漢字さえ書くことをしませんので、まったく無学であきれる様でいます。

 かつて読んだ漢籍などといったものは、目にもとめなくなっていましたのに、ますますこのような渾名を聞きましたので、どんなに人が伝え聞いて憎むことだろうと、恥ずかしさに、御屏風の上に書いてある字句をさえ読まない顔をしていましたのに、中宮様の御前で『白氏文集』の所々を読ませなさったりなどして、その方面のことをお知りになりたげなご意向であったので、たいそうこっそりと女房の伺候していない何かの合間合間に、一昨年の夏ごろから、「新楽府」といふ書物二巻を、きちんとではないがお教え申し上げていますが、このことも隠しています。

 中宮様もお隠しになっていましたが、殿も主上も様子をお知りになって、漢籍類を立派に書家にお書かせになって、殿は中宮様に献上なさる。本当にこのようにわたしに読ませなさったりすることは、それでもやはり、あの口うるさい内侍は、まだ聞きつけていないでしょう。これを知ったならば、どんなに悪口を言いましょうかと、総じて世の中というものは煩雑で嫌なものでございますね。


《第二章 寛弘五年土御門邸にて 道長と和歌贈答》

【一 源氏物語について】

 『源氏物語』が、中宮様の御前にあったのを、殿が御覧になって、いつものように冗談を言い出された折に、梅の実の下に敷かれている紙にお書きになった歌。

 「すきものと名にしたてれば見る人の 折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ」 (あなたは好色者との評判が高いので、見かけた人は口説かずに放っておく人はいないと思います)(一五)

 と詠んで、お与えになったので、

 「人にまだ折られぬものをたれかこの すきものぞとは口ならしけむ」 (誰にもまだ靡いてことはないのに、いったい誰がわたしを好色者だと言いふらしたのでしょうか)(一六)

心外なことですわ。」と申し上げる。



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いくつかの校訂書が出版されている。

  • 『紫式部日記』 池田亀鑑秋山虔岩波文庫、1964年1月、ISBN 978-4003001578
  • 『紫式部日記全注釈』上・下、萩谷朴角川書店、1971-1973年(日本古典評釈全注釈叢書)ISBN 978-4047610200
  • 『紫式部日記』上・下、宮崎荘平講談社学術文庫、2002年7月-8月、ISBN 978-4061595538&ISBN 978-4061595545
    • 『新版 紫式部日記 全訳注』講談社学術文庫、2023年6月、ISBN 9784065294703
  • 『紫式部日記』 小谷野純一、笠間書院〈笠間文庫 原文&現代語訳シリーズ〉、2007年4月、ISBN 978-4-305-70420-7
  • 新編 日本古典文学全集26 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記 讃岐典侍日記』 藤岡忠美・中野幸一・犬養廉・石井文夫、小学館、1994年8月、ISBN 4096580260
  • 新日本古典文学大系 土佐日記 蜻蛉日記 紫式部日記 更級日記』 長谷川政春・今西祐一郎・伊藤博・吉岡曠、岩波書店、1989年11月、ISBN 4-00-240024-7
  • 『紫式部日記 現代語訳付き』 山本淳子訳注、角川ソフィア文庫、2010年8月、ISBN 978-4044001063

翻訳

脚注

関連項目

外部リンク

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