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羽仁もと子

日本の教育者・ジャーナリスト ウィキペディアから

羽仁もと子
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羽仁 もと子(はに もとこ、1873年9月8日[1] - 1957年4月7日[1])は、日本における女性ジャーナリストの先駆け[2]。また、自由学園および婦人之友社の創立者。家計簿の考案者としても知られている[3]。本名は松岡もと子。

概要 はに もとこ 羽仁 もと子, 生誕 ...

来歴

要約
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羽仁もと子と羽仁吉一
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雑司ヶ谷霊園にある墓

1873年(明治6年)青森県八戸市に生まれる[1]。こどもの頃は誰にでも可愛がられるたちのこどもではなかったと回想しており、自分の妙に主観的な性質が大きい人に喜ばれなかったのであろうと述べている。また、手は人並み以上に遅くて不器用で、頭は人並み以上に綿密であったと述べている。[4]1889年(明治22年)上京し[1]東京府立第一高等女学校2年生に編入[1]。在学中に洗礼を受け、生涯にわたってキリスト教を信仰した[5]。ただし、教会に属さない無教会の立場であった。

1890年(明治23年)東京女子高等師範学校を目指すも不合格となる。

1891年(明治24年)「女学雑誌」の編集長である巌本善治が校長を務める明治女学校高等科に入学[1]。明治女学校在学時には「女学雑誌」の校正を手伝い雑誌作りの基礎を学ぶ。

1892年(明治25年)帰郷し尋常小学校盛岡女学校の教員をし、その後結婚するもまもなく離婚[1]

1897年(明治30年)再度上京し、報知社(現・報知新聞社)に入社[5][6]報知新聞の校正係の職を得て[1]、機会あるごとに自主的に書いた原稿で実力を認められて、1899年(明治32年)4月に取材記者に登用された[2]。自伝では、自身を「はじめての女性新聞記者」と書いている[7]

1901年(明治34年)職場で知り合った羽仁吉一と再婚[1]、その後まもなく報知新聞を退職し[5]、吉一が高田新聞社に勤めるのに伴って新潟へ赴く[1]1903年(明治36年)女性雑誌『家庭之友』を創刊[1]。1904年家計簿を刊行する[3]。 1906年(明治39年)4月30日「きれぎれでない、婦人に必要な思想並びに智識を根本的に記述、文明日進の時勢に適応する主婦の修養を目的」とした会員制『家庭女学講義』を『家庭之友』と別系統の形で家庭女学会より創刊する。1908年(明治41年)1月『家庭女学講義』は『婦人之友』と改題され[8]婦人之友社を設立する[1]

1914年(大正3年)婦人之友の姉妹誌として、子ども向けの『子供之友』も出版。しかし、国家総動員法のもとで日本出版会による統制によって、『婦人之友』を残して『子供之友』は廃刊となった。戦後に福音館書店から刊行される『こどものとも』は、この誌名を譲渡されたものである。

1921年(大正10年)読者の子への家庭的な教育を目指して、当初は女学校として東京・旧目白(西池袋)に自由学園を創立した[1]。その名称は新約聖書の「真理はあなたたちを自由にするヨハネによる福音書 8:32)」に由来している。校舎ははじめ羽仁夫妻の住居であった[9]が、創立当時、来日していたフランク・ロイド・ライトはファミリースクールへの共感から積極的に校舎の設計を引き受け、後に自由学園明日館として国の重要文化財の指定を受けて一般に公開されている。1925年(大正14年)学校規模の拡大により、現在の東京都東久留米市に購入した学校建設予定地周辺の土地を関係者などに分譲し、その資金で新しい学校施設を建設して移転。 1927年(昭和2年)小学校に相当する初等部設立、1935年(昭和10年)男子部設立、1939年(昭和14年)幼稚園に相当する幼児生活団設立、1949年(昭和24年)大学に相当する最高学部設立した。 もと子は自由学園で先生と呼ばれるのを嫌がり、ミセス羽仁と呼んでもらいたいと言っていたという[10]

1930年(昭和5年)全国の『婦人之友』愛読者により「全国友の会」が設立される[1]

1932年ニース世界新教育会議に出席。 [11]

1935年東北凶作を受けて東北農村合理化運動という運動を展開。子供服に変えられる古着と寄付金を募り、2月1日~4月15日までに2595円の募金が集まる。これによって東北6県(岩手、福島、秋田、青森、宮城、山形)の最貧村にセツルメントが開設された [12]

1938年6月、政府から国民貯蓄奨励委員に任命される [13]

1938年9月、もと子は10人1組の主婦リーダーが20人の主婦を対象に衣食住の経営指導を行う「主婦生活指導隊」を発足させる。この隊による講習会では家計予算の立て方、時間の使い方、洋裁等を指導する生活教育運動が行われた。 [14]

1940年12月、大蔵省の要請を受けて120億貯蓄達成のための展覧会を開催 [15]

1941年には「主婦生活化学班」を組織して、配給調味料の経営、火の経営などの生活実験に基づく合理的指導を行う [16]

戦後は「家族日本」をスローガンに生活相談所や、引揚者のための無料洋裁講習の開設等、引揚者援護事業を行う [17]

1957年(昭和32年)脳血栓の後、心臓衰弱のため死去。墓は雑司ヶ谷霊園にある。

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親族

著書

  • 『家庭小話』内外出版協会 1903
  • 『育児之栞』内外出版協会 1905
  • 『如何に家計を整理すべき乎』鹿鳴社 1906
  • 『ネルの勇気』(少女文庫)編. 愛友社[ほか] 1907
  • 『家庭問題 名流座談』編. 愛友社 1907
  • 『家庭教育の実験』家庭之友社[ほか], 1908
  • 『女中訓』婦人之友社 1912
  • 『赤坊を泣かせずに育てる秘訣』婦人之友社 1912
  • 1927年より婦人之友社から羽仁もと子著作集の刊行が始まり、戦後に新訂版が出版された。全20巻で完結したが、後に1巻が加えられて21巻となった。

脚注

参考文献

関連人物

外部リンク

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