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胡礽泰
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胡 礽泰(こ じょうたい、中国語: 胡礽泰; 拼音: Hú Réngtài; ウェード式: Hu Jeng-t'ai、1875年〈光緒2年〉 – 1940年(民国29年)?〉は、中華民国の官僚・外交官・政治家。字は伯平[1][2][3]。北京政府では駐長崎領事署理などを歴任し、晩年は中華民国維新政府に参与した。
事績
1898年、日本に留学し、1900年には更にアメリカへ留学した[2]。帰国後は清朝で民政部郎中、資政院議員を歴任した[1][3]。
中華民国成立直後の1912年(民国元年)8月17日、胡礽泰は北京政府で国会籌備事務局委員会委員に任命された。1914年(民国3年)1月24日、外交部駐長崎領事署理として来日し、翌1915年(民国4年)3月、正式な署理任命を受けた。1916年(民国5年)1月27日、上大夫の位を授与されている。1917年(民国6年)7月、交通部航政司司長に就任し、1922年(民国11年)6月2日までつとめた。この間、賑災委員会委員や魯案善後交通委員会委員も兼任している。1923年(民国12年)2月13日、交通部秘書となり、翌1924年(民国13年)11月7日に辞職した[4]。なお、蔣介石国民政府においては、胡の目立つ活動が見当たらない。
梁鴻志らによる華中での親日政権樹立活動に、胡礽泰も参与している。1938年(民国27年)3月28日に中華民国維新政府が創設されると、胡は交通部次長に任命された[5]。同年7月26日、許修直の後任として、胡が司法行政部長署理に就任した[6][注 2]。しかし、胡は梁と権力闘争を展開して敗退[2]、1940年(民国29年)1月4日に辞職・下野へと追い込まれた(後任の部長署理は朱履龢)[7]。帰郷後、胡はまもなく病没した[2]。
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注釈
出典
参考文献
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