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荒川定由

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荒川 定由(あらかわ さだよし)は、江戸時代中期の旗本御使番として巡見使に任じられたが、報告書が粗略だったため御使番を罷免された。

概要 凡例荒川定由, 時代 ...

生涯

寛文6年(1666年)、御書院番組頭荒川定昭の次男として生まれる。

延宝7年(1675年)3月29日、10歳で将軍徳川家綱に初謁する。貞享2年(1685年)2月14日、職務上の不始末をした父に連座し、父や兄とともに丹羽長次陸奥二本松藩)に預けられた。貞享3年(1686年)6月25日、一族とともに赦免される。

元禄2年(1689年)に兄の定恒が没したため、荒川家の嗣子となる。宝永3年(1706年)11月27日、父の致仕により家督を継ぎ、寄合に列する。宝永6年(1709年)11月28日、御使番となり、同年12月18日、布衣の着用をゆるされる(六位相当になったことを意味する)。宝永7年(1710年)5月1日には命を受けて志摩国鳥羽城(転封された松平乗邑の旧領)に派遣され、板倉重治への城引渡しの役を担う。

将軍徳川吉宗就任後の享保元年(1716年)9月1日、命を受けて関八州巡視にあたった。しかし、帰任後の報告書の書面が粗略であったため、「仰をうけたまはりし詮なく、ことに定由は御使番をも勤めながら、かゝる始末に及びしこと等閑のいたりなり」[1]として翌享保2年(1717年)2月19日に御使番を罷免されて小普請に落とされ、出仕もとどめられた。5月13日には出仕差し止めをゆるされた。

享保6年(1721年)8月3日死去。享年52。

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脚注

参考文献

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