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菟道稚郎子

日本の皇族。応神天皇の皇太子。 ウィキペディアから

菟道稚郎子
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菟道稚郎子(うじのわきいらつこ/うぢのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申[注 1])は、記紀等に伝わる古代日本皇族

概要 莵道稚郎子, 続柄 ...
概要 全ての座標を示した地図 - OSM ...

第15代応神天皇皇子(『日本書紀』では皇太子)で、第16代仁徳天皇の異母弟。

概要

菟道稚郎子は、名前の「菟道」が山城国宇治(現在の京都府宇治市)の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子のも宇治に伝えられている。

郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。

『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である。

名称

要約
視点

表記は次のように文書によって異なる。本項では「莵道稚郎子」に統一して解説する。

これらのほか、『播磨国風土記』に見える「宇治天皇[原 9]も菟道稚郎子を指した表記と指摘される[1]

「ウジ」について

名前の「ウジ・ウヂ(莵道/宇遅)」は、京都府南部の地名「宇治」と関係する。「宇治」の地名は古くは「宇遅」「莵道」「兎道」などとも表記されたが、平安時代に「宇治」に定着したとされている[2]。『古事記』では母・宮主矢河枝比売が木幡村(現在の京都府宇治市木幡)に住まっていた旨が記され、郎子と当地との関係の深さが示唆される。なお現在も「菟道」という地名が宇治市内に残っているが、読みは「とどう」である。

地名「宇治」について、『山城国風土記』逸文では、菟道稚郎子の宮が営まれたことが地名の由来としている。しかしながら、『日本書紀』垂仁天皇紀・仲哀天皇紀・神功皇后紀にはすでに「菟道河(宇治川)」の記載があることからこれは誤りと見られ[3]、むしろ菟道稚郎子の側が地名を冠したものと見られている[3]。現在では、北・東・南を山で囲まれて西には巨椋池が広がるという地理的な奥まりを示す「内(うち)」や、宇治を中心とした地方権力によるという政治的な意味での「内」が、「宇治」の由来と考えられている[4][5]。実際、宇治はヤマト王権の最北端という影響の受けにくい位置にあることに加え、菟道稚郎子の説話や「宇治天皇」という表現からも、宇治に1つの政治権力があったものと推測されている[3]。なお、文字通り「兎(ウサギ)の群れが通って道になった」ことを「莵道」の由来とする南方熊楠による説もある[6]

「イラツコ」について

「イラツコ(郎子)」は、名前に付される敬称である。史書に「郎女(いらつめ/いらつひめ)」は頻出するが(『古事記』で43名[7])、「郎子」が使われたのは『古事記』では莵道稚郎子含め4名のみで[7][注 2]、一般に使われる「命(みこと)」や「王(おう/みこ/おおきみ)」のいずれでもない特異性が指摘される[7][注 3]。「郎子」の用法の性格には、愛称とする説と「郎女」の対とする説がある[7]。「郎女」の多くが皇女に用いられていることから「郎子」も皇子を指したものという見方が強いが、菟道稚郎子以外の3名はいずれも「王」とも表記されており、皇位継承者に付される「命」ではなく「王」に近い用法と考えられている[7]

なお、「郎子」の前の「ワキ」は「若(わか)」の転訛とされる[7]

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系譜

要約
視点

古事記・日本書紀

(名称は『日本書紀』初出を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

『古事記』『日本書紀』によれば、応神天皇和珥氏(丸邇氏)祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女の宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)との間に生まれた皇子である[原 10]。同母妹には矢田皇女(やたのひめみこ、八田皇女/八田若郎女:仁徳天皇皇后)、雌鳥皇女(めとりのひめみこ、女鳥王)がいる。

応神天皇と仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命)との間に生まれた大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、大雀命:仁徳天皇)は異母兄にあたる。また関連する名前の人物として、宮主宅媛の妹の小甂媛(おなべひめ、袁那弁郎女)から生まれた菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつひめのひめみこ、宇遅能若郎女)がいる。

なお、菟道稚郎子の妻子に関して史書に記載はない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10 崇神天皇
 
彦坐王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊城入彦命
 
11 垂仁天皇
 
丹波道主命
 
山代之大筒木真若王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上毛野氏
下毛野氏
 
12 景行天皇
 
倭姫命
 
迦邇米雷王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本武尊
 
13 成務天皇
 
息長宿禰王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14 仲哀天皇
 
 
 
 
 
神功皇后
(仲哀天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15 応神天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16 仁徳天皇
 
菟道稚郎子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稚野毛二派皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17 履中天皇
 
18 反正天皇
 
19 允恭天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
意富富杼王
 
忍坂大中姫
(允恭天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市辺押磐皇子
 
木梨軽皇子
 
20 安康天皇
 
21 雄略天皇
 
 
 
 
 
乎非王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飯豊青皇女
 
24 仁賢天皇
 
23 顕宗天皇
 
22 清寧天皇
 
春日大娘皇女
(仁賢天皇后)
 
彦主人王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
手白香皇女
(継体天皇后)
 
25 武烈天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26 継体天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

関係略系図

系図は左から右。実線は実子、点線は婚姻関係、数字は天皇即位順を表す。表記は『日本書紀』に基づく。
磐之媛命(前皇后)
仲姫命(皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大鷦鷯尊16 仁徳天皇)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高城入姫命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大山守皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15 応神天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
菟道稚郎子皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
八田皇女(後皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
雌鳥皇女(隼別皇子妃)
 
 
 
 
 
 
 
宮主宅媛
 
 
 
 
 
 
和珥氏]日触使主
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
菟道稚郎女皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小甂媛
 

先代旧事本紀

先代旧事本紀』では、饒速日命物部氏祖)九世孫の物部多遅摩連(もののべのたじまのむらじ)の女の山無媛連(やまなしひめのむらじ)を母とする[原 7]。また『古事記』『日本書紀』同様、山無媛連は矢田皇女と雌鳥皇女の母でもあるとしている[原 7]

この記載と関連して、後述のように、菟道稚郎子の御名代との関係がうかがわれる宇治部氏や宇治氏は、物部氏一族とされている。これらが物部氏を称したのは『先代旧事本紀』の伝えるように菟道稚郎子の外戚が物部氏であったことに基づくと推察して、母を和珥氏とする『古事記』『日本書紀』の記述は誤りの可能性があるという指摘もある[8]

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記録

要約
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日本書紀

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菟道稚郎子と大山守皇子は宇治川で争ったと伝わる。

日本書紀』によれば、百済から貢上された(貢上=「貢物を差し上げる」)阿直岐王仁を師に典籍を学んだといい[注 4]、父天皇から寵愛された[原 11]。応神天皇28年には、高句麗からの上表文に「高麗王、日本国に教ふ」とある非礼を指摘し、これを破り捨てている[原 12]。応神天皇40年1月に皇太子となった[原 13]

翌年に天皇が崩じたが、郎子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、郎子を殺そうと挙兵した。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知して郎子に伝え、大山守皇子はかえって郎子の謀略に遭って殺された。その際、大山守皇子の遺骸に向けて次の歌を詠んだという[13]

ちはや人 菟道の渡に 渡手に 立てる 梓弓檀 い伐らむと 心は思へど い取らむと 心は思へど 本方は 君を思ひ出 末辺は 妹を思ひ出 苛なけく そこに思ひ 悲しけく ここに思ひ い伐らずそ来る 梓弓檀
ちはやひと うぢのわたりに わたりでに たてる あづさゆみまゆみ いきらむと こころはもへど いとらむと こころはもへど もとへは きみをおもひで すゑへは いもをおもひで いらなけく そこにおもひ かなしけく ここにおもひ いきらずそくる あづさゆみまゆみ

この後、郎子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年に及んだ。永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ郎子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、郎子は蘇生して妹の八田皇女を後宮に納れるよう遺言をし、再び薨じたという[原 14]

古事記

古事記』では、叙述を宮主矢河枝比売(宮主宅媛)から始めており、応神天皇が木幡村(現在の京都府宇治市木幡)に住まう比売と出会い、郎子が生まれるまでが描写される[原 1]

その後は『日本書紀』と概ね同様の所伝を記す。大山守皇子の遺骸に向けて詠まれた歌も、ほぼ同じものが収録されている[14]。一方皇位継承については、単に宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子)が早世したため、大雀命(仁徳天皇)が即位したと記している[原 1]

風土記

山城国風土記』逸文では、菟道稚郎子が住んだ宮は「桐原日桁宮(きりはらのひげたのみや)」と記載される。また「宇治」の地名の由来はこの宮が営まれたためとし、それ以前の当地は「許乃国(このくに)」と言ったとする[原 3]

播磨国風土記』には「宇治天皇の世」という記載があり[原 9]、事績は見えないがこの「宇治天皇」は菟道稚郎子を指すと見られている[1]

万葉集

万葉集』には、挽歌として次の歌が見える[原 15]

挽歌 宇治若郎子宮所歌一首
 妹らがり 今木の嶺に 茂り立つ 嬬松の木は 古人見けむ
 いもらがり いまきのみねに しげりたつ つままつのきは ふるひとみけむ

柿本朝臣人麻呂之歌集出、『万葉集』巻9 1795番

このうち第5句の「古人」とは「故人」、すなわち菟道稚郎子を指すとされる[15]

その他

菟道稚郎子について言及したその他の史書は、以下の通り。

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菟道宮(桐原日桁宮)伝承地。

菟道稚郎子は菟道宮(うじのみや:『日本書紀』)または桐原日桁宮(きりはらのひげたのみや:『山城国風土記』逸文)に住んだといい、その地は京都府宇治市宇治上神社北緯34度53分31.44秒 東経135度48分41.18秒)または宇治神社北緯34度53分27.77秒 東経135度48分38.52秒)に比定されている[注 5]。両社は合わせて『延喜式神名帳に「山城国宇治郡 宇治神社二座」と記されている式内社で、明治に分かれるまでは一社として「宇治離宮明神」と称していた[16]

また『山城国風土記』逸文によると、この郎子の宮が営まれたことが「宇治」の地名の由来という。しかしながら前述のように、この記述には疑問が呈されている。

なお『万葉集』には「兎道乃宮子(宇治のみやこ)」という記載が見られるが[原 16]、これはこの歌を詠んだ額田王が近江に行幸する際に泊まった仮宮を指したものである[17]

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要約
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菟道稚郎子尊 宇治墓
(京都府宇治市)

は、宮内庁により京都府宇治市莵道丸山にある宇治墓(うじのはか、北緯34度53分50.88秒 東経135度48分18.49秒)に治定されている[18][19][20]。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「丸山古墳」。

記録

菟道稚郎子の葬送に関する記載として、まず『日本書紀』では「菟道山上」に葬られたと記載されている[19]

また『続日本後紀承和7年(840年)の記事には、郎子は遺命して散骨させたという伝承が見られる[原 6]

延長5年(927年)成立の『延喜式諸陵寮諸陵式)では「宇治墓」の名称で記載され、山城国宇治郡の所在で、兆域は東西12町・南北12町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する[原 8][19]。この12町(約1.3キロメートル)四方という記載は、仁徳天皇の百舌鳥耳原中陵(大仙陵古墳に治定)の8町(約870メートル)四方を大きく上回るものになる。

後世の治定

上記の記録があるものの、江戸時代の時点では墓の所在は不明となっていた。享保18年(1733年)には、『日本書紀』の記述に基づき、古墳が存在していないものの朝日山(宇治上神社後背)の山頂が墓所と見なされて墓碑の建立が行なわれた(北緯34度53分28.03秒 東経135度48分58.19秒[21][22]。上記の丸山古墳に治定されたのは明治22年(1889年)で、以後現在まで宮内庁の管理下となっている。この地は宇治川東岸にあり、明治以前は「浮舟の杜」と呼ばれる円丘であった。これは「山上」とする『日本書紀』の伝承とは異なるという指摘もあったが、前方後円墳状に成形されて「宇治墓」とされた[19]

また上記の治定の際には、付近の小墳が賀陽豊年という人物を埋葬した陪塚と定められている[19]。賀陽豊年は、『日本後紀弘仁6年(815年)の記事にその死に関する記載がある人物である。その中で、豊年は宇治に居た時に仁徳天皇と菟道稚郎子の話を聞いて感動して「地下之臣」になることを望んだといい、勅により「陵下」への埋葬が許可されたと記されている[原 4]。陪塚の治定はこの記事の「陵」を郎子の墓にあてたことによるが[19]、一方で仁徳天皇の陵とする解釈もある[23](通常「陵」は天皇陵、「墓」は皇族墓を指す)。

郎子が散骨されたという伝承に関しては、前記した『続日本後紀』で中納言クラスの藤原吉野が把握していることが見えるものの、それ以外の史書には記載がなく真偽は明らかではない[24][25]。記事中では、郎子が自身の散骨を命じて「後世之に倣う」と記されているが、これを「後で命じられた通りにした」と解する見方[26]と「郎子を流例として散骨が広まった」と解する見方[24]がある。

なお、持統天皇5年(691年)には有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある[27]。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある[27]

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考証

要約
視点

10代から25代までの皇統譜

(10) 崇神
 
 
(11) 垂仁
 
 
(12) 景行
 
 
 
 
 
 
 
 
(13) 成務
 
 
(14) 仲哀
 
 
(15) 応神
 
 
 
 
 
 
 
 
(16) 仁徳菟道
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(17) 履中(18) 反正(19) 允恭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(20) 安康(21) 雄略
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(24) 仁賢(23) 顕宗(22) 清寧
 
 
(25) 武烈

史書の菟道稚郎子に関する人物描写では、大山守皇子に対して謀略を用いる場面もあるものの、『日本書紀』の自殺の美談に特に顕著であるように、全般に儒教的な色彩が極めて濃いという評価がなされている[28]。また、母が和珥氏出身であること、「郎子」という特殊な呼称、天皇即位をほのめかす多くの表現等から、描写の特異性が指摘される[7]

これらについて、夭折(『古事記』)・自殺(『日本書紀』)という表現は潤色であるとし、仁徳天皇に攻め滅ぼされたとする説が古くより提唱されており、背景に和珥氏・葛城氏の争いがあったという意見がある[29]。この「仁徳天皇による謀殺説」には多くの説が従っているが[7][30]、中でもこの争いが記述された意味に対して、菟道稚郎子の物語は和珥氏の伝承が由来であって、郎子を顕彰するという和珥氏の要請を果たしつつも聖帝たる仁徳天皇の構築のために結び付けられた叙述であるという見方がなされてきている[31]

即位説

このように菟道稚郎子を仁徳天皇の脇役とする見方に対して、別の評価をする研究説がある。『古事記』では「郎子」が皇位継承者の「命」とは異なる用法(前述)である一方、天皇として即位していた扱いの表現もまた見られることから[注 6]、「皇統譜と並行してありえた天皇」であるとし、記紀に対して「記紀に記されなかった史実」の存在を指摘する研究がある[7]。似た事例としては「飯豊天皇」と称される忍海郎女(おしぬみのいらつめ)が見られ、描写法の関わりが考えられる[7]。またこの菟道稚郎子の記事により、皇統の父子継続から兄弟継続への変化(右図参照)が合理的に実現されているとも指摘される[32]

記紀以外では、『播磨国風土記』にある「宇治天皇」の記載に拠り、皇位に就いていたとする指摘がある。[33][34]

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宇治部

菟道稚郎子の御名代の部、すなわち菟道稚郎子の名を冠した朝廷直轄のとしては、宇治部(うじべ、宇遅部)が指摘される[35]。この宇治部の伴造氏族としては、宇治部氏(宇遅部氏、)が史書上に見える[35]。『新撰姓氏録』には河内国神別と和泉国神別に記載があり、饒速日命の六世孫・伊香我色乎命(伊香我色雄命)の後裔と伝え[原 17]、『先代旧事本紀』では饒速日尊七世孫の多弁宿禰命が宇治部氏の祖と伝えている[原 7]。これら2氏一族の人名は他の史書上には見えないが[35]、直(あたい)姓・無姓の者は、武蔵国常陸国[注 7]下野国近江国越前国備前国讃岐国筑前国といった全国に及んでいる[35]

なお、宇治部自体は菟道稚郎子の御名代部としての確証には至っておらず、『国史大辞典』では「確かな御名代部名」には挙げられていない[36]。また、他の「宇治」を冠する氏族として宇治部氏と同じ物部氏系を称する宇治氏(姓は連のち宿禰)があり、宇治部の管掌氏族とする説がある[37]

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脚注

参考文献

関連書籍

関連項目

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