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植物学
植物を対象とする生物学の一分科 ウィキペディアから
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植物学の分野には、作物栽培学(農学)・海洋植物学など多彩な分野がある。なお、分子生物学や生命科学の進展から科学性を強調するために植物科学(しょくぶつかがく)と呼ぶこともある。

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名称
英語のBotanyは、牧草地・草・ハーブを意味する古代ギリシア語のβοτάνηから来ている[2]。
漢語の「植物学」は、植物学者ジョン・リンドリーの"Element of Botanity" の漢訳『植物学』(宣教師アレキサンダー・ウィリアムソン訳)が日本に伝わり、それ以前に使われていた蘭学者による植学に取って代わったものである。
学問分野
植物学の下位分野として、植物形態学、植物発生学、植物生理学、植物地理学、植物生態学などの諸分野がある。また、対象とする生物ごとに、シダ学、コケ類学、藻類学、樹木学などと分けることもある。農学や林学、園芸学、草地学との関わりも深い。リンネの二名法以降、分類学的な研究が発展し、メンデルの法則以降は遺伝学による育種学も行われてきた。
解剖学・細胞学・組織学
最初に発見された細胞がコルクであったように、植物細胞は細胞壁を持つため、その組織は観察がたやすい。顕微鏡の使用が行われるようになってすぐに細胞が発見されると、組織学的研究が進んだ。細胞説も植物に関してが一歩先んじている。ただし、それ以降の進歩は速いとは言えない。その要因の1つには、動物のような生体解剖が植物では難しいことが挙げられる。動物では体内に各種器官があり、区別して取り出せるのに対して、植物ではそれぞれが細胞単位で機能しており、しかも互いに密着している。したがって、そのレベルでの植物の機能については単純な機構を想定しての推測になる面が多かった。この分野では、21世紀現在でも研究が進行中である。
植物生理学
植物が餌も採らずに生長することについては、ヘルモント(1648年)がヤナギの生長とその間の土の損失を測定した実験など、古くから探求が行われてきた。様々な光合成にかかわる条件やその影響の出方から、20世紀初頭には明反応と暗反応の存在が予想されるに至ったものの、その機構についての具体的な解明が行われたのは、呼吸鎖の解明以降であった。
また、個体レベルの生理学は、成長の調節や傾性・屈性の研究から、植物ホルモンの発見などが挙げられる。
遺伝学
遺伝学は、メンデルがエンドウを使って法則を明らかにしたことで発展が始まり、シロイヌナズナやイネ、タバコをモデル植物とした研究が盛んに行われてきた。ただ、それ以前から遺伝学の実験には植物がよく使われていた。ヒトが飼育栽培する生物の中では、植物の方が寿命が短く管理しやすいものが多かったためであろう。
しかし、ショウジョウバエやアカパンカビなどがモデル生物として使われるようになってからは、研究の最前線において、モデル植物の利用は減少した。
植物地理学・生態学
植物地理学は、世界の様々な地域での植物相の分布を論じるが、植物相はその地域の相観を決める重要な要素である。したがって、地理学と強固に結びつき、気候帯の区分などに向かった。また、各地における様々な植物群落の組成を調べる研究は、植物社会学と言われる植物に関する群集生態学へ発展した。他方で、そのような植物群集の移り変わりから、遷移の理論が発展した。さらに、それに動物群集をまとめて考えることで生態系の概念が生まれた。これらは生態学の重要な部分を占める。
歴史
要約
視点
古代の薬の多くは薬草のような植物由来であり、このため植物学は薬を研究する本草学や医学と深い関係を持ってきた。古代ギリシアのテオフラストスは『植物誌』を著し、またローマ帝国のペダニウス・ディオスコリデスが1世紀に著した『薬物誌』は薬草学の基本として西洋医学で広く用いられた[3]。特にディオスコリデスの著書はヨーロッパ世界およびイスラム世界において薬学の基礎とされ、『薬物誌』に記された薬草を栽培する薬草園が修道院などに設けられた[4]。15世紀以降、ヨーロッパでは薬草書が多数出版されるようになり、16世紀には薬草から離れ植物全体を扱う植物学が成立し始めた[5]。このころの植物学は薬草研究を含むため医学部に属しており、4つの主要教科のうちの一つとされていた[6]。このため、薬草研究を目的とした植物園が16世紀以降主に大学付属で設立されるようになった[7]。
18世紀に入ると、重商主義政策を推し進めるヨーロッパ諸国は資金流出を防ぐため有用な植物を発見し、それを自国領土内に移植して国産化を目指す動きが強まった[8]。また16世紀後半以降、園芸熱がイギリスで強まり、富裕な個人による植物コレクションが開設されるようになったほか、庭園を建設するためにイギリス以外から観賞用の樹木・花を移入することが盛んとなり[9]、これらの産業上の要請から18世紀後半以降、イギリス帝国の各植民地で研究用の植物園が開設された[10]。また18世紀にはカール・フォン・リンネが二名法を体系づけ、リンネ式階層分類体系を提唱して分類学を創始し、植物の系統分類の基準を構築した[11]。
植物学が本草学から発展したことは東洋においても同じで、中国では後漢末に本草書である『神農本草経』が成立し[12]、さらに1596年には李時珍によって『本草綱目』が著され、中国のみならず日本をはじめとする周辺諸国に大きな影響を与えた[13]。日本では江戸時代初期に本草綱目が渡来したのち、1709年に貝原益軒が日本初の本草学書である『大和本草』を出版し、以後多くの本草学者が輩出された[14]。1775年から1776年にかけては長崎出島のオランダ商館医としてカール・ツンベルクが来日し、多くの標本を採集してのちに『日本植物誌』を刊行している[15]。
ツンベルクの『日本植物誌』はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトによって日本にもたらされ、彼から教えを受けた伊藤圭介によって1829年に『泰西本草名疏』として出版されたが、このときツンベルクの師であるカール・フォン・リンネの分類学が日本に紹介された[16]。明治維新後の1877年(明治10年)に東京大学理学部が創設されると同時に植物学の講座が設けられ、矢田部良吉が初代教授に任じられ西洋植物学が講義されるとともに[17]、伊藤圭介が員外教授に任ぜられ東京大学付属となった小石川植物園の植物の分類研究に当たった[18]。1882年には矢田部良吉を会長とする東京植物学会が設立され、のちに日本植物学会へと発展した[19]。矢田部を継いで教授となった松村任三はそれまでの本草学の研究の蓄積の上で多くの日本植物に学名を付与し、本草学と植物学をつないで近代日本植物学の基礎を築いた[20]。
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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